怪異 排管の中(3)
夢魔の刻
混沌とした浅い眠り。食欲を満たし、酒の力を借りて、ゆっくりと潜在意識を通り越した未覚醒意識への探求だ。ぼんやりとした頭の中に、二か月前の事件が脳裏に浮かび上がってきた。
あれは三月下旬の晴れた日の事だ。強く玄関のドアをノックする音で目が覚めた。誰が叩いているのか、オンボロな木製のドアがきしんで音を立てる。
「は~い・・・」
俺が寝ぼけた調子で返事をすると、野太い声で”警察です”との回答。俺は内心、舌打ちをしながら、ショボショボとした目を擦り、ドアを開けると、そこには、身なりの整った如何にも柔道でもやっていた風な大柄な男と小柄で銀縁眼鏡を掛けた前頭部の薄い男が二人揃って背筋を伸ばし、写真付きの警察手帳を見せながら立っていた。
俺は手帳の写真と本人の顔をまじまじと見比べる。警察手帳には、確か、小柄で銀縁眼鏡を掛けておでこの広いのが貞平。ガタイのいいデカい男が宅間。そう書いてあった。貞平刑事が、銀縁のメガネを指で上げながら口火を切る。
「ああ、どうも。朝早く、すみません。こちら、長屋 治夫さんの御宅でしょうか?」
「ええ、そうですけど・・何か?」
「もしかして、寝てらっしゃいました?」
「ええ・・・まあ・・」
「ああ、そうですか。こんな、朝早くに起してしまって、すみませんね。ちなみに今日はお休みですか?」
「ええっ・・・。まあ、そうですけど・・」
「そうですか、それは、お休みのところ、恐縮です。いやぁ、実はですね、今日は、少しおうかがいしたいことがありまして、お尋ねしたんですが、ちょっと、お時間宜しいですか?」
「はぁ・・・。何か、あったんですか?」
俺は、訝しげに貞平刑事の頭を舐めるように見ながら、ぶっきらぼうに答えた。貞平刑事は薄ら笑いを浮かべているが、後ろの宅間刑事は、どさくさに紛れて、部屋の中を舐めまわすかのように視線を動かしている。
「ええ、それがですね。あまり驚かないで頂きたいのですが、実は、このアパート付近でですね、ちょっとした事件が発生しまして、今、その捜査をしているんですが・・・それについて、二、三質問をしても良いですかね?」
「・・・。まあ、いいですけど、短時間で済むのであれば・・」
「それは、どうも」
貞平刑事が咳払いをして、視線を手元の手帳に落とす。宅間刑事は、相変らず、その後ろで笑みを見せてはいるものの、細めた目の視線だけは、俺の部屋の隅々に動いているのが分かる。
「それでは、ですね。まず、今年の一月の話になるんですが・・・桜木町。ああっ、あの広い桜木公園のある桜木町なんですが、ご存じでしょうか?」
「ええ、まあ、知ってますよ。この町に住んで、もう六年になりますからね。確か、隣の広尾町の東側にあって、確か桜のソメイヨシノで有名な公園があるところですよね?」
「ああ、そうです。ご存じで良かった。実は、一月にその桜木町に在住していた広岡 百合香さんという方が失踪したんですよ。えーっと・・・この方なんですが、この辺りで見かけた事は、ありませんか?」
メガネをかけ直しながら、貞平刑事が背広の内ポケットからL版サイズの女性の顔写真を突きだしてきた。俺がゆっくりと覗き込むように見ると、髪はサラサラとして長く、二重のパッチリとした瞳が特徴の若い女性の写真だった。俺は左右に首を振りながら、
「いいえ。全然、見た事ありませんね。なんで僕に、そんなことを聞くんですか?」
「ああ、いえっ、別に、あなただけではないのですよ。実は、この広岡さんが最後に目撃されたのが、このアパート付近なんです。それで、もう少し手がかりがないかと思いましてね。周辺住民の方やこのアパートの皆さんにも、同じ質問をさせて頂いているんですよ」
「ああ、そうですか・・・。まあ、残念ですが、僕には見た事が無いので、どうしようもないですね」
「まあ、そう、言わないで下さいよ。一応、捜査の一環でしてね。うーん、ところでですね、もう一つ質問してもいいですか?」
「ええ、どうぞ。」
「今年、一月・・・ああっ、これも同じ一月になりますが、高見市に行った事とか無いですよね?」
「高見市?えらく遠くなりましたね。隣の県じゃないですか」
「ええ、そうです。隣県の高見市なんですが、行かれたことは?」
「いやー、まあ、僕は、ご覧の通り、自動車はおろか、自転車も、あいにく持ち合わせていないんですよ。まあ、仮にですよ。仮に、行くにしても、電車かバスを乗り継がないと行けませんね」
「確かにそうですね。この辺は不便ですからね。何せ、中型都市をうたってますが、中央駅を離れると途端に、交通網が寂しくなりますもんね。じゃあ、もっぱら移動手段は、徒歩ですか?」
そう言われた瞬間、俺の少し残っていたプライドが傷くのを感じた。所詮、小さなプライドだと言われるだろうが、自動車も自転車も買えないと、小バカにされたような憤りが頭をもたげて怒りという炎が心の中で燃え広がっていくのを感じたのだ。
「いえっ・・・ま、まあ、徒歩はですね、健康のためには、いいんですよ。何せ、この辺は、空気もいいですからね!」
「ああ、そうですよね、健康には、いいですよねぇ。で、一月に高見市へ行った事は無いと?」
”ええぃっ!しつこいぞっ!”っと俺の中の何かが弾けた。
「ええ!そうですよ!行けるわけがないですよっ!僕は、貧しいんですよ!ここから最寄駅が、徒歩で何分かかるか知ってますか?三十分です!そこから、鈍行電車に乗って、三時間です。しかも、三千円も払って、わざわざ高見市まで行く意味って何ですか?」
と、捲くしたてる俺に、貞平刑事は、少し広がった額を右手で掻きながら聞いている。宅間刑事は、神妙な面持ちだが、相変わらず視線は室内の物色に余念がないようだ。
「まあまあ・・・、そう興奮しないで下さい。まあ、分かりました。いや、非常に参考になりました。いろいろと質問をして、気を悪くされたようで、すみませんね。こちらも、仕事なので、堪忍して下さい」
「・・・。まあ、いいですけど・・・。僕もつい、カッとしてしまったようで、すみません」
「いえいえ、朝早く起こされたのだから、余計ですよね。それでは、失礼しました」
「はあ・・・まあ、それでは・・」
と、そう言って、ドアを閉めようとした俺に、
「ああ、すみません。また、何かあれば、うかがう事があるかもしれませんので、その時は宜しくお願いしますね」
と、念押しするかのように、二人の刑事は軽く頭を下げると、そのまま、隣の部屋へ向かった。
と、俺の中にある映写機の映像は、そこでカラカラと音を立てて、いったん途切れる。再び、映像が現れたのは犯人逮捕の瞬間だ。三月の暖かい陽が昇った昼下がり。それは突然だった。
「独山さーん。独山さんっ。いらっしゃるのは、分かっているんですよー。警察です。このドアを開けて下さい。お話があるんです」
「えーいっ!ちょっと退けっ!独山 博っ!さっさと、このドアを開けろっ!」
隣の部屋のドアノブが廻され、けたたましく木製のドアを叩く音が聞こえた。合板で出来たドアが壊れんばかりに振動し、このオンボロ木造アパート全体に響き渡っていく。
「さあ、観念して、早くドアを開けろ!ぶち破るぞっ!」
”ガチャガチャ”とドアノブを引き抜かんとするぐらい、ひねり廻し、ドアを”ドンッ!ドンッ!”と叩く乾いた音が次第に強くなっていく。
「えーいっ!もういいっ!鍵だ!鍵を貸せっ!合鍵で開けるぞっ!」
ドアノブに鍵が差し入れられ、鍵のシリンダーが廻される。”カチッ!”という開錠音と共に、ドカドカと複数の足が畳に踏み込む音が聞こえてきた。
俺の隣の部屋では、今、まさに修羅場と化しているのだろう。先ほどから、俺は、隣の部屋との薄い壁に左耳を吸着板のように、くっつけて、耳を澄ませているのだ。そして、次の瞬間だった。ガラスが割れる音がして、
「うわぁぁぁーっ!」
と、張り裂けそうな奇声が聞こえたと思ったら、続いて、”ドサッ!”と鈍く地面に何かが叩きつけられるような音が聞こえた。
俺は、弾かれたように窓側へ駆け寄った。薄汚れた窓の下には、左足を抑えて、うめき声を上げながら、転がる男がいた。上下黒いジャージを着た小太りの男。彼が独山 博である。ビシッと背広を着た体格の良い捜査員らしき男たちが三名、一斉に駆け寄ると独山を見下ろしている。
「おーいっ!独山は?どんな風だっ?」
「どうやら、左足をやっちまったようです。」
「そうか・・・。おっしっ!ご苦労っ!救急車呼んでやれっ!おっ、それと令状!独山に持って行けっ!」
「はいっ!」
隣の窓から身を乗り出して叫んでいるのは、この間、俺の家を訪ねてきた、あの銀縁メガネをかけた貞平刑事だった。
「十二時五十八分 マルヒ確保!これから、マルヒの家宅捜索のため、現状を確保っ!鑑識班も呼んどけよっ!よしっ!我々は、マルヒ事情聴取のため、引き上げるぞっ!」
「はいっ!」
「んっ?マルヒ?マルヒ、マルヒって何だっけ?ああ、思い出した。警察隠語で、確か、被疑者の事だったな」
俺は、ふと昔観た映画タイトルを思い出していた。隣の薄い壁を通して、再び、厚い底靴で、畳を踏み鳴らす音が聞こえ、やがて遠ざかっていった。しばらくして、救急車のドップラー効果を交えたサイレン音が聞こえ、やがて遠ざかる。昼前までの静けさが、戻るまでに、そんなに時間はかからなかった。やがて、カラカラと音を立てて、白いフィルムが回り続ける。俺の中の映写機の映像は、そこで途切れていた。
(続く)
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