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怪異 排管の中(4)

怪異


 静寂・・・。潜在意識の裏側から、徐々にぼんやりとした顕在意識へと意識が戻ってくる。雀の甲高い鳴き声が、だんだんと耳の奥を刺激する。まだ、肌寒い外の風が、窓の隙間から俺の肌を刺してくる。

 まぶたの裏側を通して見えるのは、薄いオレンジ色の光が揺らめく姿だ。また、裸電球が点けっぱなしなのだろう。俺は、反射的に目覚まし時計の方を向いて、うっすらと、まぶたを開けた。長針が八と九の間を指し、短針が四と五の間を指している。

(まだ、四時四十三分か・・・。寒い・・・。もう少し、寝よう・・・。)

俺は、うつらうつらとした意識の中、唯一、持っている掛布団を引っ張り寄せて、寝ようとした、その時だった。

”ズゥゥゥー・・ズゥー・・グギュゥッ!グギュゥッ!ゴグゥッ!ゴギゥッ!”

 突然、あの重量感のある音が、部屋中に響き渡ったのだ。俺は、脳天から楔(くさび)を打ち込まれたように、一瞬にして、煎餅布団の上に、跳ね起きた。だが、その音は、全く止まる気配はなかった。静寂を切り裂いた音。それは、長い筒状の空洞の中で、何かが、ゆっくりと蠢(うごめ)くかのような重低音だったのだ。春の明け方の寒い空気を余計に震わせていく。俺は、氷を背筋に入れられたように、ピンッと張りつめた緊張が走り、体を硬直させている。

”グルグルゥゥー!ズゥゥゥヴヴヴー!ヴヴァァァーッ!”

 得体のしれない蠢く音への恐怖。喉の奥は、酒に焼けているのも手伝ってカラカラだ。背筋に悪寒が走り、全身に鳥肌を立てていく。嫌でも鼓動が、高まっていくのを感じる。しかも、その重低音は波状となって、狭い部屋に反響し、どんどん俺に近づいているかのように、渦を巻いていくのだ。

”ズゥゥゥヴヴヴー!ズゥゥゥヴヴヴッ!オ、オマエヴヴヴェェー!”

それを聞いた刹那(せつな)、俺は反射的に、ビクッと背筋を跳ね凍らせた。

(い、今、お、オマエって、言わなかったか?)

 心臓が口から飛び出しそうな驚きに、激しい鼓動が首筋の動脈を激しく叩く。いつしか額には、汗が吹き出しており、全身の鳥肌のザワザワとしたざわめきが止まらない。俺は、なんとか、心を落ち着かせようと、一息飲み込むと、さらに耳を澄ませる。いや、全身の神経を研ぎ澄ませて、この音の出どころを探っているのだ。再び聞こえてきたのは、どす黒く濁ったような音・・・いや、声だ。これは、人間の声だ!

”オマエヴヴヴェェーッ!オマエヴヴェェッ!ガァァァッー!ブシュゥッーーー!”

 俺は、遂に、その正体を知るときが来たのだ。そう、それは、汚れ物の溜まった台所の流しにいるのだ。

 突然、積み重なった食べ散らかした弁当の空容器と汚れた食器を押しのけて、排管を逆流してきた水が怒涛の如く、吹き上がった。それは噴水などという生易しい水圧の勢いではない。まるで、高圧洗浄機のように圧縮された水が一瞬にして、地面を叩きつけるような勢いなのだ。天井にまで達したその水流が、一瞬にして、流しに置いてあった食器たちを蹴散らし、床に叩きつけて散乱させた。部屋の中心にある裸電球のオレンジ色の光だけが、今、俺の視野にその陰影を作り出して見せている。

「な、なんだぁぁぁっ?!」

 俺は、飛び散った食器なんぞに目もくれず、しっかりと目を張ると、その逆流する水にクギ付けになった。それは、大量の気泡をまとい、排水管から湧き出すように、吹き出し続けている。だが、それは、橙色の電球を以ってしても、黒く艶やかなヌメリを帯びて、不気味に揺らめいているのだ。それは、まるで、海底で海草が揺らめいているようにも見える。

(いや、あれは、海草じゃない!まるで、黒い人間の髪の毛のようじゃないかっ!そう・・・、あの艶やかな色といい、なびき方といい・・・そうだ、まるで、女の長い髪のようだ!)

俺がそう考えた、瞬間だった。それが、正解だっと言わんばかりに、

”ヴヴォォォーっ!ヴォマェェッー!ガァァァッー!ゴロォォォーッ!ジィィィダァァァー!”

ドスの聞いた深く濃厚な声が、部屋中を震わせ、今にも破れそうな木製の窓がガタガタと音を立てて振動した。

(お、おま・・・え・・・が・・・ゴロジダ・・・・?お前が殺したっ?お前っ!まさかっ!)

 俺は、とっさに、窓際へ飛び退いた。激しい動悸と震えが全身を貫く。そして、その黒く濁った液体は、まるで、獲物を狙っているかのように、左右に揺れながら、こちらをじっと覗っているのだ。恐ろしい。心の底から湧き上がる激しい恐怖が、俺の心臓を高鳴らせ、唇を震わせる。俺は咄嗟に叫んだ。

「お、俺じゃない!俺じゃないんだっ!」

”ヴヴォォォーっ!ヴォマェェッー!ダァァァァッー!ヴォォォォッー!ヴォマェェー!ガァァァッー!ゴロォォォーッ!ジィィィダァァァー!”

”ち、違う!俺じゃない!で、でも、俺も、わ、悪かった・・・。俺も悪かった・・・。すまない・・・。だから・・・許してくれ・・・”

 俺は、手を合わせ、心底震えながら、ただただ謝るしかなかった。だが、それは無意味な抵抗であることも事実だった。艶やかな黒い液体は突然、大量に噴出すると、野球の投手が、ボールを投げるような、綺麗なカーブを描いて、勢いよく、俺の顔面めがけて飛んできたのだ。

「グボボボッー!ムォォォォッ!グボボボボォォォォッ!」

 そのどす黒い大量の液体が、怒涛の勢いで、俺の口腔と鼻孔を塞ぐと、無理やり喉までも押し入っていこうする。俺は、必死に、両手で反撃を試みるが、ヌメリを帯びたゲル状の液体には、全く意味を成さないのだ。俺は、体を左右に激しく反転させて、振りほどこうと、抵抗を試みるのだった。

「グォォォボボボォォッ!クソォォォッ!ブォォォッ!」

 だが、その黒く艶やかな液体は、不気味にヌメリと粘着性を帯びていて、俺の顔を的確に捕えて、まとわり付いてくるのだ。それは、まるで、大蛇のように、しなやかに、柔軟に、的確に獲物を狙い、確実に仕留めるのだろう。この時、俺の肺に入った水を掻きだそうとする生存本能の活動すら、意味を成さないことを知った。

(空気が・・・空気が・・・)

「グボボボボッー!」

 徐々に、俺の肺の空気が黒い液体に支配されていくのを感じる。呼吸を司る機関がゆっくりと、活動を停止し、薄れゆく意識の中で、俺は、はっきりと見た。その液体の正体を。

 それは、まだ若く、艶やかな黒々とした長い髪を伸ばした二重まぶたの女だった。濡れた長い髪の隙間から覗く青白い顔。だが、その時、俺は恐怖し、硬直した。その女の白目は、両方とも、真っ赤に充血し、その眼はグリグリと左右反対に回転をしていたのだ。あの時と同じように・・・。


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