ラグトレインの歌詞の考察
*本記事の内容はあくまで筆者の考えであり、個人的な解釈が含まれます。さまざまな考え方ができるうちのひとつの解釈としてご理解ください。
おおよその内容
ラグトレインは「自分は周りと比べて遅れた人生を送っているのではないか」という感情を電車というモチーフを扱いながら歌った楽曲
離れ離れの街=入学や就職の節目
電車=人生というレールを時間通りに走る
そんな人生を受け入れた上で、各駅停車くらいのスピードの人生を送っていくことに前向きになっていく
タイトルの考察
「ラグトレイン」というタイトルは、「ラグ=時間のずれ」と「トレイン=列車」を組み合わせた、電車に乗り遅れたことを意味する造語だと考えられます。
私は、この楽曲が電車というものを通して表現しているのは人生だと考えました。
電車を時間軸としての人生のメタファーとして扱う作品は古今東西たくさんあります。
その上で、ラグトレインとは人生のレールに沿いながらも遅延していくことを歌った楽曲なのだと受け取りました。
本記事では、その解釈を前提にラグトレインを読み解きます。
歌詞の考察
先の人生のメタファーとしての読み解き方を前提に置くならば、「離れ離れの街」とは、入学や就職などの節目で区切られたそれぞれの地点を指しているといえます。
それらをつなぐ列車が行ってしまうというのは、入学や就職に乗り遅れる、つまり浪人や留年を指し示していると受け取ることもできるのではないでしょうか。
「失くした言葉を知らないならポケットで握りしめて」というのは、稲葉曇の過去曲『ロストアンブレラ』に引き続き「失う」という事柄についての個人的な思想が垣間見えるフレーズです。
「あがいた息を捨てて延びる今日は眠って誤魔化せ」というのは、モラトリアムを示唆しているのではないかと思いました。
あがきを損切りして、それによって遅延した人生を眠って誤魔化すというのが、電車がやってくるまでを眠ってやり過ごすこととかかっているのではないでしょうか。
「各駅停車に乗り込んで」というのは、そのまま、遅延を甘んじて受け入れ、快速ではないゆっくり進む電車で向かうということでしょう。
学校や会社などの人間社会は時間によって規定され、人々はその枠組みにはまるように働きます。これは電車も同じです。
日本の電車は、時間通りに動くことで世界的に知られています。先の通り、電車が人生のメタファーなのだとしたら、この楽曲中の主人公はそのレールからドロップアウトしている、つまり時間の枠組みから離縁しているため、夕方の時間に退屈を感じるのだと思います。
それでもその退屈の誘いを断るのは、意志やプライドなのかもしれません。
社会は複数人によって形成されますが、反対に、ドロップアウトは孤独です。一人きりの路地裏でも、決して急ぐ(焦る)ことはなく、自分のペースを保ちます。
横断歩道と見張る街角が引き留めてく、というのは、自分の生き様に異を唱える社会なのではないでしょうか。
大通りではなく路地裏を歩いていく自分自身を、パノプティコンのように「誰かに見られている」意識(→過剰な自意識)によって、足がすくむことを示しているのではないかと考えます。
「夢」、「揺れる」の部分以外は冒頭と同じ歌詞です。
「夢」に関しては先述の通り、入学や就職に乗り遅れるような事態に対して、それまで抱いていた夢のことではないかと思います。
「揺れる」に関しては、遅れてきた各駅停車に乗れたということだと考えます。その電車の中で、「延びる今日」を「眠って誤魔化」すのだと考えます。
夕方は退勤や下校する人達で溢れます。
それは言い換えれば社会と離れた孤独に社会が入り込む時間です。
その時間は孤独を和らげるどころか、自分と社会の断絶を見せつけられ、よりはっきりと孤独が表れると思います。
孤独を感じたくないために路地裏を歩くし、ひとり占めできるまで休憩して欲しい、ということになるのではないでしょうか。
ここでまた、引き留めるものが2つと、さらに急かすものが出てきました。
「集団下校があなたを急かしている」というのは、社会との断絶から感じてしまう同調圧力によるものでしょうか。
1番で急がないようにしていた主人公が、2番では外的に急かされてしまいます。そんな自分を、自動改札と塞がる両手が引き留めます。
1番にもあったように、引き留めるのは誰かではなく、「物質」です。急かすのが集団下校という多数の人間との対比が表れています。
ですが、歌の中での「また集団下校があなたを急かしている」の箇所の譜割りは、文章量が倍近く異なるにもかかわらず「ほら 自動改札は待ってくれと言ってる 塞がる両手があなたを引き留めてく」の箇所と同じくらいの時間をかけて歌われます。
焦らせるものがゆっくりと歌われるのは、演出としてよく使われる手法で、そのものの現実感を感じさせます。
荀子の言葉に「風に順いて呼ぶ」というのがあります。
風上から風下に向かって呼べば声がよく届くように、勢いに乗じて事を行えば成功しやすいというたとえです(goo辞書より)。
『呼んだ風に飛ばされないでいてくれ』という歌詞は勢いに乗じすぎて事が急いてしまう、飛ばされてしまうことを危惧しているのだと思います。
失くした言葉を知らずに握りしめていた主人公は、そのことを肯定し、揺れる列車に身を任せることを望みます。
社会による圧力(という名の自己否定)をやめて、社会に遅れをとった自分自身を肯定し、許せるようになります。
自分は自分、他人は他人という志を持つようになったとも言えるかもしれません。
これも冒頭と同じ歌詞ですが、最後が「旅をして」に変わっています。
急いで時間に合わせて動くことよりも、自分のペースに合わせながらノマド的に生きることを選んだということだと思います。
ちなみに、稲葉曇がのちにリリースした「レイニーブーツ」という楽曲には
「遅れたバスに乗りたくないなら溜まった涙が跳ねる音のリズムに乗っていけ」
「ジャンプ ジャンプなんて出来ない地球にいじわるされて掴まれているの」
「満員電車は曇ってやばいから溜まった涙が跳ねる音のリズムに乗ろう」
などという歌詞があり、ラグトレインと似たメッセージを連想させます。
まとめ
ここまでの考察から、本楽曲は社会から逸脱し、そのことに疎外感や孤独を感じる主人公が、自分自身を受容・肯定できるようになることを歌った楽曲だと私は考えました。
遅れというのは時間で管理されたこの社会においては重大な過失のように思われますが、もっとマクロな視点から見れば大したことではありません。
自分に尺度を置きながら生きる方が健全であるということは、アランの幸福論などでも語られています。
ミクロな現在の遅れに急かされずに、マクロな現在自体を見つめてみれば、それが大した遅れではないとわかるはずです。
ゆとりを持った人生というのは、現代の私たちに必要なことでしょう。
考察は以上になります。
長々と書きましたが、あくまで筆者の感想です。もしこの記事を読んでいただいた方の解釈と筆者の解釈が異なっていたとしても、この記事の解釈より、自分なりの解釈を信じていただけたらと思います。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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