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めんどう見て、見られて、めんどくさい? 〜学校エッセイ25〜

序  noteさん、有難う

noteを始めたのは最近。他の、同じ類のSNSツールとの違いは幾つかあるが、「お」と思ったのは、noterさんだけでなく、『note』さんも話しかけてくれることだ。下書きを閉じようとしたら、「また会えるのが楽しみです」などの言葉(バリエーションあり)が画面に出て、長時間執筆していたら優しく休憩を促され、投稿数やスキ数が増えたら祝ってくれる。悪い気はしない。特に私はやりすぎてしまう(あるいはやらなさすぎてしまう)タイプなので、「目を休めてくださいね」と言われたら、「確かに」
と思う。

「褒める」ことについてと、採点という教師業についての余談

「気にかける」「声をかける」「褒めて伸ばす」という言葉があり、私も教師としてその手法を大いに採用していた。ナチュラルにそうする時もあったが、そうでないことも多い。例えば、「現代文のあの記述問題、いい答え書いてたじゃん」とか、「中間(テスト)よりかなり良かったんじゃない?」とか、「下半身に重心を置いて振るあの感じがいいのよ!」とかは、意識して頭に置いて、その子を見かけた時につかまえて口にする必要がある。そして即時性も不可欠だ。私のいた学校の生徒の多くは記述問題が苦手だった。教わったことを覚えて答案用紙に書こうとはするけれど(これも全員では全くないが)、本文に基づきながら(読解では、本文に根拠がないとダメ)自分でも考えて、うまい言葉を探しながら文を自分で組み立てて、説明する。これは難しいらしい。高校受験の塾で教わったのか、大概の者が、傍線部前後の本文を丸写しする。或いは主語述語のねじれた、誤字や口語だらけの文を書く。そんな中で、私の気に入る答えを書いた者には二重丸や花丸を付ける。100枚に2枚くらいはそういう解答がある。因みに、先日ネイリストさんから、「先生は採点も大変ですよね。何枚くらいやるんですか?」と聞いてもらった。聞いて下さい! 授業の持ち方によって枚数は違うんですが(そしてテストの性質もあるので、枚数が少ないから楽というものでもないんですが)、専任教諭の持ち授業は週16から20コマくらい(学校による)。仮に週2コマの授業を8クラス持つと、各クラス40人として採点枚数は320枚。これはたぶん多い方だと思う(推測。うちの学校はもっと大変だ! と怒られる可能性もある)。採点枚数が極端に多かったり少なかったりしないように、ある程度は配慮されている(はず。ハメられた、と思ったことは、私は正直あったが)。因みに、採点枚数が多いイコール1年間大変か、というとそうとも限らなくて、持つ授業の種類が多い(例えば、高1の漢文と高2の現代文と高3の古文と高3の国語表現、なんていう持ち方をすると……)方が寧ろヘヴィーだ。定期試験は年5回。授業は毎日。私なら、前者を選ぶ。

解答を褒める・バッティングを褒める・褒める工夫(小細工?)

話を戻そう。たくさんの答案用紙の中に素敵な記述解答を見つけると、私はその大まかな内容と、それを書いた生徒のクラスと名前を記憶しておく。教科書の隅に、「ナカムラ(仮名)、らしょーもん記述、ホメる(原文ママ)」と記録しておいたりもする。付箋は剥がれるから好まない(近年は、全面に粘着力のある付箋がありそれを使っている)。そして授業の前後(少し早めに教室付近に行くこともある)や偶然会った時に声をかける。前回の試験と今回の試験を比較して点数が大幅に上がった者(下がった者、白紙答案に近かった者も)についても同じだ。こういうことをしていると、「先生、ウチ(生徒のよく使う自称)、どうだった?」「俺は俺は?」なんて生徒が集まってきたりもするが、「今教務手帳(教師が生徒の出席状況や点数を書いておく、長細いアレ。閻魔帳という呼び方もある。今じゃパソコンオンリーの先生、学校もあるのかも?)持ってなくて。ごめん、でも全員のは憶えてないよ」と言うと、そりゃそーか、となる。ある夏の日に野球部の試合を観に行き、私は、脚の筋肉が太く、安定した下半身からスイングを繰り出す副キャプテンのバッティングフォームが、とても気に入った。専門的なことは全然分からないのだけれど、下から上に大きく振り上げる感じの打ち方で、正直空振りが多い。でも当たるとデカい。見ていてそう思った。周りの男の先生にそう言うと、その通りだ、と言った。だから後日、ちょっとニヒルなその生徒の所へわざわざ寄っていって、「空振りが多い」という箇所だけ省いて感想を伝えた。彼はシャイな低音で、フッと笑った。心少なくとも私はアツかった。

野球部員の話をもう少しすると、坊主で泥だらけで眉毛もそのまま(監督から、チャラつくことは一切禁じられている)だった生徒が、卒業後、SNS上に、赤い革ジャン姿やドレッドヘアなどを披露していたりする。男の子が、しかもあの子が、自分のファッションコーデ(ィネイト)を毎日画像(動画のこともある)でアップするのだ。こうなりたかったんだ、と、一抹の寂しさを覚えながらも、へぇ、と思う。似合ってるよ、と、直接廊下で言ってあげたい。

ひいき

「暑苦しい先生」っていませんでしたか? 大きな声で、しょっちゅう話しかけてくる。大げさ。時々的外れ。なかなか話をやめてくれない。私もちょっと、いやかなり「ソレ」入ってた気がする。ある日昔の卒業生が連れ立って遊びに来て、担任だった先生(私ではない)の話になった。「濃い」先生だったよね、と誰かが言った。私はたぶん、「生徒思いだよね」と言ったと思う(この時に限らず、いろんな、便利な言い方がある)。するとアキコ(仮名)が、「あたし、カズコ(仮名・彼女たちの担任だった先生の下の名前)、好きだったよ。ひいきしてくれたし」と言った。

そうか、「ひいき」する先生、っていうのは、必ずしも悪口ではないんだ。

私はひいきされていた。ひいきされていない子もいた。あれはひいきという或る意味偏った行為だと認識はしているけれど、「私は」ひいきされて嬉しかった。

そういうことだ。彼女は在学中、ちょっとしたことで或る先生から「目をつけられ」た。それは卒業まで続いた。大人みんなから褒められるような生徒であれば、極端なひいきをうっとうしく感じたかもしれないが、彼女はカズコ(先生)から認めてもらい、味方になってもらい、心強かったのだろう(カズコ先生も、アキコが或る先生から目をつけられて、つけた目を逸らされて無視されていたことを、知っていたのであろう)。

スポーツジムで浴びる褒め言葉たち

今私の通っているスポーツジムのインストラクターさんたちは、何でも褒めてくれる。いや、「もうちょっと腹圧を入れた方がいい」とか、「スピードを上げて」とかは言われるが、とにかく「何でも」褒めてくれる、という感じがある。「綺麗なフォームですね」「ナイスファイト」「(30秒で)14回イケたら凄い凄い」「今月21回来たの? 素晴らしいじゃない!」に始まり、「お水たくさん飲めましたね(水分が大事で、「水」がいいらしい)」「雨なのによく来られましたね」「暑いのによく来ましたね」「忙しいのによく来ましたね」。果ては、「自分を褒めてあげて下さい」。既にこんなに褒めてもらっているのに。一番面白かった(失礼)のは、夏までの目標を決めろと言われ、多くの人が曖昧な目標(なるべく回数来る、とか、少し痩せる、とか)を言う中、私が「〇〇キロ(数字はここでは伏字)になる」と(小声で)言った時だ。そのジムでは「見える」化が行われていて、来るごとに、来店表に丸をつけたり、筋トレ動作の注意事項がそちこちに貼られていたり(貼り紙だらけ)するのだが、私は会員カードの表の面に、白いシールで「〇〇キロになる」と貼り付けられた。そして言われた。

「良い目標ですね!」

達成じゃなくて、「目標」を褒められたのだ。嗚呼、授業のツカミや、授業で言う褒め言葉にしたい! だけど、教師をしている時に、ジムにちゃんと通う時間や意志力はなかった(今行っているジムは、作り話でなく、6つ目だ。ちゃんと続いているのは今が初めて)。会員カードはジムでも家でも裏向きにしている。あ、見える化されているんだから、見なきゃいけないのか。でも見(られ)たくない。あと1キロだ。夏は来た。

そのジムの人はみんなニコニコしている。教える人も教わる人も。笑顔は伝染する(嫌な顔も伝染する)ものだ。ただ或る時一人のミセスが(私含め、先生含め、お姉さん、の多いジムだ)、

「子どもじゃないんだから、そんな言い方しないでよ!」

的なことを言った。どんな表現だったかは憶えていない。虫の居所も悪かったのかもしれない。インストラクターさんは、「え」と一歩後ずさった。その後、そのミセスの姿は見かけない。

思ってもいないのに褒めたり、大したことじゃなさすぎるようなことをさも大仰に褒めたりするのは、よくないといえばよくない。またそのミセスのように、「言われなくてもできるし、言われてやるのではなく、自らやりたい」という人もいる。「言われなくてもできるけど、声をかけてくれてありがとう。あなたは親切ね、仕事熱心ね」と思っておけばいいのにな、と、あの時私はインストラクターさんに同情したけれど、「(それが褒め言葉であっても)いちいち言われたくない」と思う人もいるのだ。

そうだ、私にも、「よく来ましたね」「ご来店ありがとうございます」と言われると、「いやいや、自分のために来てるんだし」とツッコみたくなることはある。一人でちょっと笑ってしまう。みんな決まった月会費を払っているのだから(都度払いはない)、しょっちゅう来ないでくれた方がそちらは楽なんじゃない? なんて思ったりもする(長期的展望でいえば、いいジムだと評価された方が繁盛するだろうけど)。

私はそこでは(芳しくない)生徒でしかなく、人を褒めにいっている訳ではないが、「来店回数2,400回Tシャツ贈呈」「今日でね、私91歳なの」には、心から拍手を贈ってしまった。

生徒を褒める時(誰を褒める時にも)、私は性格上、心にもないことは言わなかった(言ってもいいと思う。私の性に合わないだけ)。私は素直な性格で(これも短所にもなるが)、けっこう嫌いな先生でも、素敵なネクタイをしていたら褒めたりする(相手のためというより、そのネクタイが素敵だと思ったことを自分が言いたいのだと思う)。ファッションを褒められた時の男性の、嬉しそうな感じも私は好きだ。

教室は舞台?

だけど、大げさに褒める、というのはあった。今日は雨だな、というのを、傘をくるくる回して体もくるくる回転させて、手のひらを上に向けて、歌いながら表現する舞台もあるではないか。コーヒーカップやティーポットが躍り出したり、絨毯が飛んだりもするではないか(あれはアニメか?)。私は客席に手を伸べて、生徒を舞台に引っ張り上げる。真ん中に立たせて跪く。

生徒の言動や達成や失敗を細かく把握して、そして工夫して、評価を伝える(或いは、敢えて伝えない)。それが私にとって「めんどうを見る」行為の一つだった。めんどうを見る見方にはいろいろあるけれど、めんどうを見ることが教師の仕事の一つだと思うから、めんどうを見ることそのものやそのための工夫がめんどうだと思うなら、教師にはならない方がいい、と私は思う。教育とはめんどうを見ることではない、と考える方もいらっしゃるのかもしれないが、教師は、めんどうを見るめんどうさと無縁ではいられない、と、私は考えている。めんどうの見過ぎがよくないのはいうまでもないが。我が子のめんどうを見過ぎる親は、子どもにとっても教師にとっても、しばしばめんどくさい。でも、「あなためんどくさいですよ」と、少なくとも教師は、大人である親には言えない。何様? ということになる。

褒めるなら小声や目配せやサムズアップくらいでやってほしい、とか、触れてほしくない、という人もいるだろう。褒めたら怒り出した、という生徒はいなかったが、「しーっ」「みんなの前ではやめて」と言う生徒はちらほらいた。その辺は匙加減だ。毎日学校に通っていれば、生徒も先生も、時にはうすら寒い思いやしょっぱい体験もする。温かいカップの中に角砂糖を入れて、今日一日を乗り切ろう。「お砂糖は幾つ入れますか?」

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