猫のおかげで

 小さい頃から時間を忘れて何かを眺めるくせがあった。駿府城のお堀の水面、ラーメンに浮いた脂、画用紙に滲んだインクのしみ。それらには無限の情報が詰まっているのかもしれない。眺めているとき、私の意識は限りなくうすくなっている。お堀の水面の光の乱反射や、ラーメンの脂の輪郭や、インクに染まった画用紙の繊維ひとつひとつが、私の頭をフリーズさせる。見つめても見つめても飽きないのは、どれだけ見ても私がそれらを切断することができないから。それらに名前をつけて説明することができないから。

 世界も時間も連続している、ということを感じるようになったのは、皮肉にも世界の流れを「切断」することを要請されるようになった、社会人と呼び習わされる集団に加入したときだった。新人の私は、ひたすらに「切断」を覚え、それはすぐに身についた。時間やタスクを刻んで、隙間ができないように思考しながら詰めていって、その通りに自分を動かす。首尾よくできれば、これほど気持ちいいことはない。私は切断を当然のものとして受け入れた。社会人として振る舞うのが好きだった。

 切断するのは時間だけではなかった。世界の流れを言葉に変換するのも切断のひとつだった。言語化のうまさは、仕事の出来に直結する。特に私に課された仕事は、そういうことが求められた。先に結論から述べる。説明は理路整然と順序立てる。無駄な比喩は使わない。そして、個性を含めない。私は仕事における言語化のすべを、ゲームのように楽しんだ。

 刻んで、刻んで、形にする。生きていく上で当たり前のこと。それができなくなったのは、社会人2年目の冬だった。ある日、いつも通りデスクに向かおうと椅子に腰掛けて、そのまま「ぐにゃ」と崩れ落ちた。それは、刻んで、刻んで、刻んだ世界の流れの間隙の復讐だった。

 動画のフレームレートのように、刻めば刻むほど、流れはなめらかになると思っていた。しかし、刻んだものを連ねるのは、刻んだときにこぼれ落ちてしまったものだった。私は、こぼれ落ちたものをすべて無視していた。その結果、刻んだコマとコマをつなげるコンテクストが成り立たなくなった。流れは、なめらかどころか、ぎこちなくなった。

 病名がついた。会社も休んだ。薬ももらった。それでも、流れはぎこちないままだった。

 そんななか、うちに猫がやってきた。とてもかわいい猫だ。私は、いかにうちの猫がかわいいかを友達に何度も説明しようとした。けれど、どれだけ言葉を尽くしても足りないのだ。
 猫の存在を捉えようとしたとき、私は「刻む」ということが全く意味をなさないことに気づいた。説明を束ねて「猫」とラッピングしても、それは目の前の圧倒的な存在感を表せなかった。猫は「流れて」いた。流れの中にいるだけでなく、猫の存在自体が「流れ」だった。ぎこちない世界で、私は久しぶりに「流れ」に触れた。

 そして、大事なことを思い出した。猫だけじゃない。全てが、そして他ならぬ私自身が「流れ」なのだと。

 流れている世界を認識しようとするとき、人間はどうしても「刻んで」しまう。脳が認識できるフレーム数には限りがあるからだ。でも、フレームとフレームをなめらかにつなぐための何かがある。それがなにかはわからない。クオリア、と説明されるものなのかもしれない。ひとつ言えるのは、人間の認識のフレーム数に限りがあろうと、私という存在そのものが流れのひとつであるということだ。

 それに気づいたとき、静止画の世界が少しずつ流れ出した。そして、私には刻まずに済んでいた時間があることも思い出した。流れを流れとして感じていた時間。それは駿府城のお堀の水面、ラーメンの脂、画用紙のインクのしみ。いくらでも見つめられていたそれらは、説明を必要としなかった。それらに詰まっている情報の全てを知覚し標本化することはできないけれど、その流れを感じ取ることはできる。

 私は大袈裟に猫を抱きしめる。「おお、猫よ!」「なんてかわいいのだろう!」と演劇調子でふざける。この世という大きな流れの中で、お互いの流れを感じ合えること自体が奇跡なのだ。


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