コロナ禍と時間感覚/2021年8月に書いた文章

この文章は2021年8月に書かれたものです。

1  感覚の変化

 最初にWHOがパンデミックを宣言して1年と8ヶ月あまり、私達は様々な生活の変化を余儀なくされた。2021年9月現在、新型コロナウイルス感染症は終息の気配を見せず、繰り返される緊急事態宣言のさなかで、もはやソーシャルディスタンスという対策も形骸化し、オリンピックは開催され、街には人が溢れ、感染者は4桁台を切ればいい方。ワクチンの接種も先進国と比べれば進んでいるとは言い難いのが日本の現状である。
 外出時はマスクが手放せず、施設のいたるところに透明な仕切りがあらわれ、複数人で集まることも難しく、仕事や飲み会のオンライン化が推奨されて、はじめは目新しかったニューノーマルな生活に、今や慣れつつある。識者の言うことはばらばらで、この生活がいつまで続くかも不明瞭ななか、なんとか生活をやっていこう、というさなか、ふと、不思議な感覚にとらわれた。流れていくものとしてなんの疑いもなかった時間が、切れ切れになっているような、そんな感覚である。

 では、コロナ以前はどうだったのかと問われると、そのときの感覚を思い出すのも難しくなっていることに気がついたとき、もしかしたら私の身体感覚の方はすっかりコロナ仕様になってしまったのかもしれないと、おそろしくなった。iPhoneでコロナ以前、大学時代の思い出の写真を開いてみたとき、誰もマスクをしていないことに違和感をおぼえた。マスクをつけ、外出や人との不要不急な交流を避けることが、感覚として染みついてしまっているがゆえに、新型コロナウイルスの存在しなかった過去の世界が、なんだかとても遠いものに思えてしまう。それでもなんとかこの頃の感覚を呼び起こそうと、スナップ写真を次々と開いては眺めるうちに、やっぱりこの頃は時間の流れ方が今とは違って感じられたような気がしてきた。

2  時間を区切る「不要不急」

 東京で最初の緊急事態宣言が発令され1ヶ月ほど経った2020年の5月のある夜、私は借りた本を返しに、最寄りから隣の駅の街に住む友達のもとを訪れた。今は週2~3回のペースで通勤のために当たり前に電車を利用しているが、そのときは電車に乗るのもおそろしい気がして、わざわざ歩いていったのだ。もともと人気の少ない住宅街なのもあり、緊急事態宣言だからといって特段人通りが減ったという感じもしなかったが、それでもいつもの風景と違ってうら寂しく、冷たい感じがした。待ち合わせ場所の駅前にたどりつくと、先についた友達が、ほかに人のいない広場の真ん中でぽつんと街頭に照らされて立っていた。彼女の姿をみとめたとき、知人に会うということ自体久しぶりだったこともあり、話したいことが頭の中に溢れてきて、思わず駆け出していったが、私と彼女の距離が縮まるにつれて感染の不安が頭をもたげ、彼女の全身が視界におさまるくらいの距離で足を止めた。今までだったら、このまま抱きついたりハイタッチをしたり、接触をともなう挨拶を交わしていたはずだった。私たちは距離を保ったまま、久しぶりに会話をした。もっとも接近したのは本を手渡したときで、そのあとは一言二言交わしたのみにとどまり、お互いに話し足りない気持ちを確認し終わったところで別れた。友達とのコミュニケーションに、手短もなにもないのだが、用件を済ませたらあとはきっぱり立ち去らねばならないという雰囲気を、緊急事態宣言下の緊張感がつくっていた。

 そこから、あらゆるコミュニケーションが「不要不急」の名のもと、必要最低限に、短時間で、区切りをつけられるようになった場面に何度も立ち会った。仕事でもプライベートでも、オンラインでもオフラインでも、まるでZOOMが40分で切れてしまうように、時間で区切られていった。それにはもちろんメリットも多く語られた。こと仕事においては、無駄な雑談が減った、終了時間が守られることで効率よく会議が進むようになった、等々。しかし、このように無駄を削ぎ落とし制限時間の中で済まされていくコミュニケーションを繰り返していくうちに、自分自身も「残り時間」を気にするくせがついた。友人たちとの他愛のない話でさえ、「手短にすませるべき」ではないかという意識が心の底に芽吹き、切り上げるためのコミュニケーションに長けていった。

 この状況下でなるべく一人でいる時間のほうを多く確保することは、身の安全という引き換えにできないことと結びついているゆえに、私たちは引き際をコントロールすることをより強いられるようになったと思う。まるで学校の時間割のようにコミュニケーションは必要火急を軸に分割されていく。その、区切りと区切りの間にはなにがあるだろうか。私は、区切られてしまった時間を重ねていくなかで、それらの連続性を実感しづらくなっていった。分割された時間がただ並んでいるだけで、時間が線形の連なりであるということがいまいち腑に落ちない。一人で好きなことをしている時間も、一日ごとに分割され、昨日と今日と明日を区別するものが何なのか、ときどきわからなくなる。それはあらゆる生活の制限によって特別なことが起こりづらくなった所以かもしれない。けれど、コロナ以前の生活にだって、平凡な日が連続することはあったはずだ。それなのに、同じような日々を送っていても今のほうが、時間の流れがぶつ切りになっているような感覚がある。どうして、このように感じるようになってしまったのだろうか。

3 離人症的な時間感覚

 一度目の緊急事態宣言が出たとき、私は新入社員として社会人の一歩を踏み出すタイミングにいた。モラトリアムを卒業し、いわゆる「社会に出る」というライフイベントのインパクトは、未知の感染症への不安によって上書きされてしまったことになる。4月1日に本社で入社式を行ったほかは、3ヶ月ほど完全なオンライン研修だった。その間、生活に必要な買い物以外はほとんど家から出ずにいた。ときおり近所を気晴らしに散歩したが、自分の居住圏を離れるということはほぼ無かったと思う。生活の大部分が家で完結するなかで、時間が経つのが遅いな、と感じることはあった。これは単純に、飽きと慣れからくることだろう。
時間というのは不思議なもので、同じ1時間でも過ごし方によって体感の長短が変化する。退屈なときは長く感じるものだし、逆に楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。しかしいずれの場合も、時間は連続しているものとして自明の感覚がある。それは、「今」というものが、「過去」と「未来」と地続きであることを無意識のうちに了解している感覚といってもさしつかえないだろう。そして、私たちは通常、出来事を時系列のエピソードで捉える。「朝ごはんを抜いたから昼にとてつもない空腹におそわれた」というとき、朝ごはんを抜いたことと昼に空腹になったことの因果関係を説明できるのも、それぞれの出来事を時間の連続した流れの中で数直線のように捉えることができるからだ。

 最近私のなかで違和感となっているのは、朝ごはんを抜いたことと昼にとてつもなくお腹が空いたことのあいだに隔たりを感じるような、頭では因果関係がわかっていてもそれが腑に落ちないということだ。バタバタして朝ごはんを食べそこねてしまったこと、それによってお腹が痛くなるくらい空腹になることとが、なにか個別の出来事のように感じる。朝の時間と昼の時間が明確に区切られている感覚がある。
 あくまで自身には専門的な医療知識がなく恣意的な比較になることを前提とした上で、似た事例をあげるとすれば、これは離人症の時間感覚に近いものがある。離人症とは、物事や出来事の近くには問題がないものの、それらを体験したときに得られる実感や、自分が自分であるという実感の喪失といった症状に代表される、一種の精神状態をさす。離人症を発症した人は、目の前にあるものがどんなものかは理解できるが、それがそこに実在しているという実感が得られない、自分がここに存在しているという理屈はわかるがその現実感がない、といった症状に加えて、時間がとぎれとぎれになって連続性を失う、といった症状を訴えることが多い。前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか 「私」の謎を解く受動意識仮説』(筑摩書房,2010)の表現を借りるとするなら、ここでいう「実感」「現実感」は「心の質感」すなわち「クオリア」である。「五感から入ってきた情報と、自己意識のように心の内部から湧き出てきた情報を、ありありと感じる質感がクオリアだ」(前野)。

 通常、私たちは何かを知覚したときに、そこから知覚したこと以上の情報を受け取る。「私は今、これを知覚している」という実感は自明すぎて注意しないと意識に上らないかもしれないが、少なくとも、何かに感動したり、あるいはショックを受けたりした際には、それを知覚している自分自身の存在をありありと自覚する瞬間がある。たとえば、今まで食べたことがないような美味しい料理を食べたときに、それが舌を刺激し、喉を通る単なる反応だけではなく、これまでの経験と照らしてまったく違う感動を受け取っている自分自身の身体感覚を含めて、料理を味わうことになる。もしこれが、自分の誕生日などといったシチュエーションであれば、そのような要因も含めて感動的になるだろう。このクオリアが失われ、自分が今なにか美味しいものを食べていることはわかるが、それが質感として立ち上がってこない、舌や喉の刺激は正常に感じられるものの、それを味わっている実感が得られない、という状態が離人症的なものだというふうに考えられるだろう。

 こういった状態に陥った人は、同時に時間感覚に対しても質感を失う。木村敏『時間と自己』(中央公論社,1982)によれば、離人症患者は「時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先に進んでいかない。てんでばらばらでつながりのない無数のいまが、いま、いま、いま、いま、と無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない」と訴えるという。なぜ離人症患者にとっては「今」と「今」が断絶してしまうのだろうか。そして、私が離人症のように「時間がぶつ切りになってしまう」と感じているのは、コロナ禍と関係があるのだろうか。

4 「もの」と「こと」


 木村敏は『時間と自己』において、「もの」と「こと」の存在論的差異から離人症を説明する。
 「もの」とは、客観的認識の対象である。私たちがなにかを意識的に認識するときに対象となるすべてである。「もの」は空間を占めるという性質がある。それはたとえば部屋の中に机があるといった外部的な空間だけではなく、内部的な空間、私たちの頭の中においてもである。なにか一つのことに思いを巡らせているとき、私たちの意識は同時並行的にもう一つのことを意識的に考えることができない。明日の献立を考えながら、見たい映画を選ぶということをほんとうに同時に行うことは不可能である。無意識のレベルでは脳はさまざまな処理を同時並行的に行っているかもしれないが、意識の壇上を占有するのはつねにひとつの対象である。
 これに対して「こと」とは、認識の対象から外れたすべてのこの世を構成している「こと」である。逆に言えば、私たちは「こと」という連続性をなんらかの知覚によって認識しようとするとき、それを「もの」化してしまう。この世に存在するあらゆる「こと」を、私たちは「もの」としてしか「見る」ことができない。これは視覚的な「見る」ということだけではなく、考え方を「見る」という意味も含まれている。そして、「見る」というはたらきは、対象から距離を取るという客観的アプローチによってのみ成立する。われわれがなにかをイメージするとき、その対象と自分の間には距離があるはずだ。

「このようにしてわれわれは、覚めた意識をはたらかせているかぎり、内部も外部も至るところものまたもので埋め尽くされた空間の中に住んでいる。この空間内では、われわれひとりひとりもそれぞれ一つのものである。われわれの肉体がものであるだけではない。われわれの自己といわれるものも、その同一性も、他者の心のようなものも、われわれが見るかぎりにおいては、ものとしてわれわれの眼の前に現れてくる。」

木村敏『時間と自己』

 ことの声を聞く、とはどういうことなのか。「もの」「こと」の差異について、別の言い方をすれば、「デジタル」と「アナログ」かもしれない。京都産業大学教授で歌人でもある永田和宏氏の、京都新聞掲載のコラムにこんな説明があった。

我々はアナログの世界に生きている。1分2分という区切りに関係なく時間は私のなかを流れているし、空気にもその匂いにも境目はなく、数えることはもちろんできない。そんな世界にあって、感覚としてアナログを捉えることはできても、それを表現することは不可能なのである。表現した途端にそれはアナログからデジタルに変換されてしまうからである。アナログ世界は表現不可能性のなかでのみ成立しているとも言える。

コラム「一歩先のあなたへ」京都新聞 2014年9月17日 夕刊

 ここでいうアナログからデジタルへの変換は、木村が述べている人間の認識が「こと」を「もの」としてしか処理できないことにあたるだろう。さらに永田氏は、言語化もある種の「アナログからデジタルへの変換」であると続ける。
「言葉で表すとは、対象を取り出して、当てはまる言葉に振り分ける、すなわち分節化する作業である。外界の無限の多様性を、有限の言語によって切り分けるという作業なのである。(中略)「言葉には尽くせない」という表現自体が、言葉のデジタル性をよく表している」
 連続量を分節化する際、そこで捉えきれなかった「こと」、すなわち切り分けられた「もの」と「もの」の間にあるはずの「こと」は捨象されてしまう。私たちは、たとえば広大な海を目の前にしたとき、その海から受け取ったさまざまな印象を、言葉にしようとした途端につまずく。「深く美しい青い海」「母のように雄大な海」など、表現を尽くしても、感じ取っていることをそっくりそのままひとつもとりこぼすことなく、言葉にすることはできない。しかし、言葉にできないけれどたしかに何かを感じている。言葉にしたときに捨象されてしまったはずのものを、私たちは感じ取っている。これが木村の言う「ことの声を聞く」ということ、クオリアを感じるということである。そして、「もの」とは、言語化の対象と言って差し支えないだろう。

 木村は上記に述べたような「もの」と「こと」の差異を前提としたうえで、離人症とは「こと」が失われた状態ではないかと述べている。つまり、永田の述べるところの「アナログ」を感じることができず、「デジタル」のみの世界に生きている状態だ。「時計を見ればいま何時ということはわかるけれども、時間が経って行くという実感がない」「時と時とのあいだがなくなってしまった」という離人症患者の声はそのまま、分節化された時間の間隙が無くなっていることをあらわす。本来なら時間の流れという連続性の中で、いわば時刻や時限とは本に挟まったしおりのようなものであったが、しおりが挟まれたページ以外がそのまま落丁しているような状態なのだろう。

 木村は「自己もことであり存在もことであり、そして時間もことである」と述べている。「こと」をアナログ、連続量とおきかえてみればわかりやすい。私たちはすべて、私たち自身も含めて連続性のある存在である。
 そして、「こと」のもうひとつ重要な性質が、同時に複数が存在できるということだ。「もの」であれば、同時に存在することができない。BUMP OF CHICKENの歌詞を引くならば「ひとつぶんの陽だまりにふたつはちょっと入れない」ということである。「こと」ならば、主観の数だけ存在することができる。

5 「ことの声」を希薄にするコロナ禍

 ここまで長くなったが、なぜコロナ禍の、場合によってはニューノーマルと呼び習わされる生活の中で、私の時間を感じる感覚に変化が生じたのか。
時間を分節すること、つまり連続性を切り分けて管理することで、「こと」的な部分が捨象されやすくなったのではないか、と思った。時間の流れを感じる、というのもひとつの「ことを聞く」過程だったはずだ。その機会が乏しくなってしまったことで、私のコロナ禍における時間感覚も、「もの」的になっていったのではないか。その結果生じたのが、離人症患者の時間感覚に近似する時間の途切れ感、現実感のなさだったのかもしれない。

 また、時間の分節化だけでなく、オンラインのコミュニケーションも「もの」的な性格を帯びている。複数人でZOOMをするとき、基本的に発話はひとりひとり交代で行われる。話すという行為が、同時発生的にできないのである。オフラインの飲み会であれば、あちらの卓では旅行の予定を立て、こちらの卓では思い出話に花を咲かせる……など、同時に複数のコミュニケーションが発生することが可能だった。しかし、ZOOMでは隣の人にひそひそ話しかけることもできない。ZOOMでのコミュニケーションにもだいぶ慣れたが、オフラインとまったく同じようにはいかないと感じるのは、このような同時発生的なコミュニケーションをとることができないからだろう。
 週の半分くらいリモートワークをしているが、常々感じるのが、偶発的なコミュニケーションの機会に乏しくなるということだ。出社していれば、隣の人に話しかけたり、喫煙所で居合わせた人と他愛もない会話が盛り上がったり、先輩にランチに誘われたりなど、予定されていなかったコミュニケーションが発生する。ときとしてそれは、自分のペースを乱される事態にもなるが、このように基本的には次に何が起こるかわからない不安定な時間のなかを私たちは生きているはずだ。一方で、リモートワークをしていると、まずひとりであるためにそもそもコミュニケーションが発生しにくい。オンラインでチャットやZOOMをしていたとしても、要件から外れた会話も起こりにくい。最近は、意図的にアイスブレイクとしてミーティング時の雑談を行おうという人もいるが、こういう場合でさえ、先に述べたようにひとりひとり交代で話していくという形式めいたコミュニケーションのなかだと、脱線しづらいように思う。

 次に何が起こるかわからない不安定な時間、とはまさに「こと」をあらわしている。一方で、時刻や時限は便宜上切り分けて管理するためのデジタルな基準であって、それらは「もの」的な時間といえる。
リモートワークにおける会議や時短営業、三密の回避などは、できるだけタイトな時間内で済まそうという動きだ。そういうなかにあって、時間の「こと」的な側面を感じづらく、「もの」的な側面が強まっているように思えてならない。
グーグルカレンダーを見ていると、「もの」的な時間が一日を埋め尽くしている、と感じる。次に何が起こるかが可視化され、予期されたことがそのとおりに遂行されていくことが繰り返される。そうしていくうちに、昨日と今日と明日の区別もわからなくなる。

 出来事の個別性が昨日と今日と明日を区別しているのではないかもしれない。むしろ、個別性が張り出してくると、自明であったはずの連続性が希薄になるのを感じる。個別性とは、それがなにでどんなかを説明できるという意味では、「もの」である。私たちが時間には「流れ」があると感じるのは、できごとの背景にある「こと」、主観の数だけ観測される同時発生的なさまざまな事象の流れを感じ取っている=「ことの声を聞いている」、からなのかもしれない。

6 クオリアを感じるためには他者が必要

 私たちの記憶のうち、出来事を時系列にまとめているのが「エピソード記憶」である。「朝ごはんを食べそこねてしまったから昼にとてつもなくお腹がすいた」は、エピソードとして出来事を記憶している例である。出来事を時系列に並べることはできるが、それらが繋がっているという感覚がない、あるいはそれが自分のものであるという実感がない、というのが離人症の状態であることは先に確認した。では、このエピソードに対する「クオリア」が表れ出てくるのは、一体どういうときなのだろうか。

 脳科学者のアントニオ・ダマシオは、自己を3つに分類した。「原自己(恒常性)」「中核自己(恒常性が乱されたときに覚醒する自己)」「自伝的自己」である。このうち「自伝的自己」が、自分の生い立ちのエピソード記憶に関わっている。
「<責任>の生成 中動態と当事者研究」(國分功一郎、熊谷晋一郎,新曜社,2020)のなかで、「自伝的自己はその成立に他者を必要とするのではないか」という問いが提示されている。他者のいない無人島では今ある知覚は崩壊するのではないか、というドゥルーズの無人島論を引きながら、次のように述べている。

「というのも、一秒前の自分、一時間前の自分、一週間前の自分、一ヶ月前の自分、一年前の自分……、そうした自分はもうここにはいません。私には見えません。でも、その存在していない自分が今の自分と同一であると思えなければ、そこから自己というものが成立してこない。つまり、自己が成立するためには、今ここに見えていないものを存在しているものとして扱う想像力の力が必要であり、その想像力の生成のためには他者が必要だというわけです。」

<責任>の生成 中動態と当事者研究」(國分功一郎、熊谷晋一郎,新曜社,2020)

 他者とは、すなわち自分の知覚を拡張する存在である。目に見えていないもの、たとえば向かいのビルの奥の部屋、を想像してそこには空間があると想像できるのは、「他者が私の代わりにそれを見て、経験してくれているという知覚があるからだ」というのがドゥルーズの考えである。
 これに乗っ取るならば、自己という「こと」の声を聞けるのも、見えないものを想像できる力があるからであって、それを可能にしているのは他者の存在ということになる。ひるがえってコロナ禍の、三密の回避に照らしてみれば、他者と有機的なコミュニケーションをとる機会が減少しているために、見えないものを想像できる力=ことの声を聞く力が弱まっているのかもしれない。そのために、現実感がうまく得られなくなっているのではないか。

7 「なにもしない」という提案

 コロナ禍の生活において、時間や予定の分節化による連続性の「もの化」が進んでいる。同時に、他者とのふれあいの機会減少によって、他者に知覚を託して見えないものを想像する機会も減っているのかもしれない。どちらも共通して、「ことの声を聞く」という感覚を希薄にする可能性がある。
私が感じている時間の途切れや連続性のあいまいさ、現実感のなさは、こうした要因に起因するのではないかというのが、現時点での仮説だ。
では、この制限下でどのようにして、「連続性の感覚」を取り戻していけばいいのか。これはただの思いつきにすぎないが、「なにもしない」時間の確保は有効ではないかと思う。

 先日、友人と海を見に行った。そして、文字通りなにもしなかった。レジャーシートをひいて、座ってただただ海を眺めていた。会話らしい会話もほとんどしなかった。しかし、なにもしないでいると、時間がゆっくり流れていくことを感じられた。時間だけでなく、この世界が刻々と変化している連続性のようなものを、うまく言葉にできないけれどたしかに感じた。

 「なにかをする」とき、「もの」的なものに集中してしまいがちなのかもしれない。ひとつのトピックに集中するあまり、それ以外の広がりが除外されるということは、何かに没頭するという経験を通して見に覚えがある。集中できていなかったとしても、何かやるべきことがある状態では、ぼーっとしていてもそのことがどこか心に引っかかっている。「もの」が内的な空間を専有している状態といえる。

 海に行ってなにもしないでぼーっとしているとき、私の内的な空間はからっぽに近かった。もちろん何も考えなかったわけではないが、思いつきのようなまとまりのない思念がうかんでは消えを繰り返し、「もの」としての形をとることはなかった。何もしないまま2時間すぎたとき、その2時間はなんの予定や時限にも分節化されることはなく、ただ流れるに任せていた2時間だった。そして、その流れに私自身も溶け合っていた。

 何もかもリミットを意識して動かねばならない、ということにことさら振り回されやすいニューノーマルの生活下では、友人とはしゃぎあったり、旅行にでかけたりというリフレッシュはしづらい。そのためにますます、「もの」的な時間から脱出する機会が乏しくなっている。だから、あえて、家でもできる「なにもしない」をすることで、「ことの声を聞く」ことができるかどうか、実践していきたい。

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