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【愛されたいって言えなかった】第1回 「親ガチャ外れた子だいたい友達」


 毎月お送りしてきた「I‘m a Lover, not a Fighter.」での戸田真琴のコラムが今回からリニューアルしました。
テーマは「愛されたい」
「I’m a Lover, not a Fighter.」では、「誰にも見つけられないあなたを愛する」をテーマにグラビア掲載やコラム、インタビューの掲載を行ってきましたが、「愛する」側に立つのってそもそもレベルの高いことだと思います。そして、愛されたいと願う段階から誰かを愛するサイドへとレベルアップするためにはまず、自分自身の内なる声を聞くことーー自分で自分の発する「愛されたさ」を認めることが第一段階としてある気がするのです。
 かくいう私も、誰かを愛する側でありたいと願いながら生きているものの、時折、急に自己がゆらいでしまい、責任や矜持をかなぐり捨てるように「どうして愛されないんだー!」と叫びたくなるような夜もあるのです。
そして、そんな自分の不安定なところを、なかなか大きな声では言えないまま今日まで生きてきてしまいました。「誰にも見つけられないあなたを愛する」のなら、まず自分の中に隠れている「誰にも見つけられない自分」のことを認識してあげなければならないにもかかわらず、です。
 ということで、この連載ではさまざまな要因で表になかなか出ることのなかった「愛されたさ」を発掘したり、誰かの愛されたさについて考えてみたり、私たちの人生を真綿で締めるようにじわじわと縛っているあの「誰かに(自分が望むやり方で / 満足に / 濁りなく)愛されたーい!」というほぼ実現不可能な巨大願望についてみなさんと考えていけたらと思っています。愛されたかったエピソードも募集したりする時もあるかもしれません。愛されたい!と一度でも思ったことのあるあなた、ぜひお付き合いいただけますと幸いです。


第1回 「親ガチャ外れた子だいたい友達」


 「あなたの育て方を間違えてしまって、ごめんね。」
 これは私がつくった映画の中のセリフで、実際に母親にも言われたことがある言葉でした。言われた瞬間は「まじでうける、人に対して言っちゃいけないこと言うじゃん!あーあ、自伝書く時このセリフ書いちゃうぞ〜!」くらいに妙なテンションで思っていたのですが、こういうのはあとからじわじわと効いてくるもので、「わたしってこの人(母親)にとって“間違い”とまで言われるような人間なのか?」「ていうかなぜ自分の価値観が正解前提なんだ……?」「私が“間違い”だってなぜこの人に決定されなければならないのか?」と怒りが込み上げてきたものです。(実際にその時母に言い返した言葉は、「え〜……私はあなたが正しく把握できないほど超傑作なのに…。失敗作じゃないっていつかわかるかもよ?」でした。マジで何言ってるのかわからないという顔をされました)

 これって私の中ではわりと最悪なエピソードとして記憶されているのですが、件のセリフがある映画を見てくれた人たちの中でけっこうな人数の女の子たちから、「同じようなことを親に言われたことがある」という話を聞くことになったのです。
 笑いながら話すひとや涙を流すひと、態度はさまざまでしたが、皆そのふるえる心に他人から理解され難い繊細さを持っていることは共通していたように思います。また、私自身がプライベートで仲良くなる人たちも、私の本やつくったものを熱心に見てくれる人たちも、すこし親しくなっていくと親との関係が良好でない、或いは心を閉ざしている状態にあることも多いように感じます。逆に言うと、な〜んかウマが合わないというか、いい人なんだけど仲良くはなれない(この人のマブダチになるのは自分の役割ではないな、的な感じ)……と感じる人は家庭環境が著しく良好な人が多いな、というのが生きてきた上でのざっくり統計だったりします。もちろん例外もたくさんあるのですが、もう雑にくくってしまうと「親ガチャ外れたやつだいたい友達」説がまあまあまかり通ってしまうのが私の人生というものでした。思えば中学も高校も、特別仲良くなる友達も告白してくる男子も家庭環境がたいへんそうな人が多かった。家庭が大変でも自分自身の優しさを守ろうと生きる友人たちは環境に恵まれた“育て方を間違えられていない”善良なひとたちとはまた違うバロックパールのような無二の輝きをして、わたしはぼんやりとそういう人たちが守られるでかいシェルターのようなものがこの世にできればいいのにと思っていたのでした。

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 最近SNSでも「親ガチャ」という言葉が取り沙汰され、そんな言い方をするなどけしからん!的な論が同意と反論を巻き込みしばらく話題にのぼったりもしていましたが、どう考えても子供の精神に悪影響を大きく与える親のほうがけしからんのだ、というのが私の持論です。人には自由に生きていく権利があるはずで、しかし家庭環境に問題があると多くの子供たちは物理的にも、精神的にもさまざまな枷を背負うことになります。自由に生きるとか、好きなように生きるとか、「あなたの人生はあなたの人生!」なんて理想的なキャッチコピーを並べられても、それが叶う最低限の環境も、それを実行できるほどの健康的なメンタルも、かなり高度な条件が揃わないと手に入らない。子供のお金を使い込む親のせいで大学に進学できなくても、身体的 / 心理的虐待をする親のもとで顔色を伺って怯え暮らしたせいで大人になっても周りの顔色を伺いすぎてストレスを抱えるようになっても、箸の持ち方を教えてもらえなくても、その負債を背負って生きていくのは子供で、それは子供が大人になってからも下手するとずっと続きます。家族や親子の絆を美化しがちな日本社会に生きていると、それが親のせいだということや、自分は親に十分な教育と安全な発育環境を与えられていないのだということを正しく俯瞰で認識することも簡単なことではありません。親じゃなくて自分が悪いんだ、と思う方が自分以外は誰も傷つけなくて済むし、簡単だったりするのです。

 だから私は、「親ガチャ」という言葉が出てきてとても心が軽くなったことをよく覚えています。なんだこれって私のせいじゃないんだ、くじ引きで外れただけなんだ!と思うと、自己責任論を押し付けてくる社会に対する反論が少しはできるような気がしてくるのです。そう、誰だってまともに生きられるなら生きたかったし、できる範囲で頑張ってきた。でも、だめだった。環境がまともな人には敵わなかった。親からお金を勝手に使われたことがない人には、親から性暴力を受けたことがない人には、親から殴られてない人には、親の機嫌をびくびくと伺い続けたことがない人には、精神の真っ直ぐさでかなうはずがなかった。そんな絶望も、だってガチャだもんなあ。羨んでも仕方ないよな、だってガチャに外れたんだから。と思うと、羨望や憎しみがやるせなさという無害な何かに姿を変えて、ほんの少し肩から荷物をおろせたような気になるのでした。

 それでもこの文章を打っているうちにも「そんなこと言うなんて親不孝ものだ」などという罵声が頭の中でやんわりと聞こえるような気がします。これは実際に言われた言葉ではなく、この社会が示してくるまぼろしの声です。あなたにも聞こえているかもしれません、そのどうでもいい怒号が。だけど大丈夫。親という存在からもたらされるものが、あなたを自由にするものか、それとも不自由に縛りつけるものなのかを冷静に省みて、そのバランスが保たれていないのならば—不自由にさせる要素の方がもしもずっと優っているのならば、あなたには頭の中で親というものを一度いないものにする必要があります

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