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SNSと現実の乖離

実際の知り合いでさえ、実際の印象とSNSの印象がかけ離れた人というのはすごくたくさんいて。仕事でのアカウント、プライベートなアカウント、それぞれ用途も目的も違うけれども、どちらで見てもSNSと実際の印象が一致する人って、私の周りはすごく少ない。

仕事のアカウントは、もちろん社会的な立場が関係するからその乖離が強く出る気がする一方で、最近は仕事アカウントと言っても、職種によっては極めて個人的なことを語ったり垂れ流すのが当たり前みたくなってきている界隈も多く、本音と建前、理想と現実、キラキラとドロドロ、もうアカウントそのものが混沌とした無法地帯のような場所になっている人が増えたし、その混沌の世界とさらに実際接する印象もまた乖離していて、ちょっとした怖ささえ覚えることがある。その上でSNSの世界と現実のその人とでは、セルフブランディングと現実の姿という意味でも、語る理想と現実の姿という意味でも、見られたい自分見せたい自分の姿と現実に見せている自分の姿という意味でも、文字の世界観言葉の世界観とそれを声にした時の雰囲気という意味でも、多くの人において乖離している。現実の知り合いですらそうした乖離があるのだから、顔も声も知らない文字だけで見てる世界観なら、なおさらそこに知らない部分への想像(理想や希望)が加わわるから、もし現実を知ったときのイメージの違いは、大きい可能性があるものだよね。

SNS(ネット)もリアルもどちらもその人なのに、その印象は一致している人と乖離している人と両方いるから、面白い。ありのままの自分と武装した自分の狭間、本音と建前の狭間、理想と現実の狭間、いろんな狭間で生きている中で、狭間のどのグラデーションで生きているかは人それぞれだし、それがどう表出するかは案外自分のコントロール下にはないのかもしれないな、とも思う。

発するということに関して言うと、SNSっていろんな人にとっての理想郷みたいな場所みたいにも感じるし、私にとってもハンドルネームでやってるTwitterは聖域みたいな場所になっていて、確かにね、その一瞬発する、という側面だけで言えば、会話ではなく発信だから、誰にも邪魔されない自分だけの場所だものね(リプだとか炎上だとかそういうのはまた別の話で)。発する自由度が上がりすぎた分、実際接したときのコミュニケーションがおざなりになったり下手になってる人は意外にも増えたようた気もする。SNSでは強気なのに現実では目の奥に暗さを宿していたり、視線すら合わないような人が増えたのもちょっと納得だったりもする。

でもそうしたSNSと現実のイメージの乖離を考えると、SNSを発する側としては、自分を表現したり自分を曝け出すための主要ツールとして頼りすぎるのはどうかと思うし

見る側としては、言葉としての世界と、SNSっていう極めて一部分しか露呈されていない世界をその人のイメージとして全てにしすぎない距離感も大事だなと。そもそも見る側の話でいえば、相手の何を見れるかはこちらの感性次第だったりもするしね。

私はSNSより目の前で現実にその人と接するほうにはるかに興味があって、実際接すること以上にSNSの世界や人にのめりこむことはない。二次元より三次元ってことかな。想像を膨らませるよりリアルを知りたいのは、リアリストだからなのか…?なんなら想像と現実のギャップそのものにすら興味があるかもしれない。そのギャップこそが、人間らしさというか人間くささだとも思うから😌それを好意的に捉えられるか、違和感として感じるかはまた別なんだけどね。

さて、私自身のSNSと私の現実は、人にどんなギャップが映るのかしら。案外自分のことは分からないものだから😚