見出し画像

夫よ、「綺麗だね」と言ってくれるな

 いつからか、夫に対して何の感情も湧かなくなった。
 いや、感情としては「嫌い」なのかもしれない。瑞々しい果物のような感情が、もうない。
 一般的な家庭に育ったから、とりあえず同じ屋根の下にいるという家族の形はよく知っている。夫に対してもそれと同じだろうと問われれば、そうだとも言えなくもないが、でもやっぱり、少し違う。

 子育てが一段落したことと引き換えに、まだ小学低学年の息子が、ベッドに入ると自慰をするようになった。本人はそれが何か分かっていないようだが、私は、驚くより先に、息子が恋人だった時代は終わった事実を知って少し寂しかった。布団から見える小さく丸い頭を眺めていると、今日も我が子を守れた喜びと、今、この瞬間の愛おしさで子宮の奥が温かくなる。自立しても、私はあなたの味方だからね、と小さく声をかけた。

 それからの私は、息子を愛しながら、これまで放っておいた女としての私を可愛がろうと決めた。決めたというよりは、母ではなく女性として生きたいという本能に従った。
 手始めに美容室。それからエステ、メイク、プチ旅行、洋服のレンタル、健康診断、貧血の改善。変化が表れた。退化する時間が止まり、見覚えのある独身時代の顔があらわれ始めた。会う人にも褒められようになったのは、半年過ぎたころからだろうか。

 ある日、息子と帰宅し洗面台に向かうと、艶のある自分の顔がそこにあった。メイクの色づき加減も良い。
 だが、漠然と「夫に見せたくない」と思った。よそに好きな男性がいるわけでもないのに不思議だなと、せっかく上がった気持ちが一気に暗澹たる気持ちに変わった。
 コットンを取り出し、メイク落としをしみ込ませ、メイクを拭う。セットした髪も手で乱すと、鏡の中にはこれまで通りの「母親バージョンの私」がいた。

 それからというもの、夫が帰ってくる前に、私は女から母親の姿に戻ることが日課となった。なぜだろう。答えはひとつ。欲情されたくないからだ。自惚れかもしれないが、少しは見られる女になったことを、「俺のために」と勘違いをして欲しくない。「綺麗になったね」と言われるのは御免だ。
 そうして、分かった。私は夫を男性として見ていないのだと。子育ての数年間、日々、何かが削られていったようだ。期待する気持ち、理解してもらえるという甘え、共感されたい願望、父性的な態度…。いや、こうした不満を話し合う中で、何の解決も作り出せない幼稚な私たちの関係に、ほとほと嫌気がさしていたのかもしれない。いつからか、息子が恋人になり、次に自分を大切にするようになると、夫に冗談でも「綺麗だね」と言われることに、嫌悪感さえ持つようになった。
 話し合いという喧嘩の後の、罪滅ぼし用のケーキなど嬉しくもなんともなくなった。闘うべき相手は、家族ではない。それなのに、愚かな私たち夫婦は、解決に向けて話すと言いながら、どう相手を屈服させるかだけを考えていたように思える。

 よく、他人は自分の思い通りにはならない。ならまず、自分が変わるべきだと聞く。至極まっとうだ。だが愚かな私は、自分のために自分を変えた。自分の変化が相手を喜ばすものでない以上、相手からの妙な詮索や感想は憎悪以外何物でもない。

 夫よ、これからも私は、当たり障りなく「妻」をやる。だから、どうか「綺麗だね」と言ってくれるな。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?