魂と戦争

1970年11月25日、自衛隊市谷駐屯地の建物の屋上から、三島由紀夫氏は、自衛隊員に「生命尊重だけで魂は死んでもいいのか」と言って「共に死のう」と呼び掛けた。

生命より大切なものを見出した人間なら、死ぬべき秋(とき)には死ねるはずだと思ったのだらう。

魂のためには自分の生命も投げ出そうと三島由紀夫氏は言って、その言質を自分の行動でとった。
三島由紀夫氏を嫌ひな人は、その死の理由を何かとあげつらふが、好きな人にとっては、自分の生命を義のために奉げたといふことだけで十分だと感じるだらう。
だから、保守的なインテリ芸人の中にも三島由紀夫氏を評価する人がたまにはゐる。

だが、さういふインテリ芸人でも、二・二六事件となると、
「意図はよくても暴力やテロリズムはいけない」
と良識的なことを言ふ。

ところが、三島由紀夫氏は、二・二六事件を、「意図がいい」とか「青年将校の赤心に嘘はない」とかいった聞こえのいい条件をつけず、全面的に肯定してゐる。

これも、生命より大切なものを見出した人間なら、
死ぬべき秋(とき)には死ねるはずだと思ってゐたからだらう。


ここで少し死すべき対象の方向を変へて考へると、生命より大切なものを見出した人間は、
殺すべき秋(とき)には殺せるはずである。

三島由紀夫氏が一番望んでゐたのは、革命勢力との戦闘の中で斬り死にすることだった。斬るだけ斬って生き残ったとしても、おそらく、人の生命を奪ったことの償ひとして自決するつもりだったのだらう。

生命尊重以上の価値を見出した三島由紀夫氏は、必要なら、人を殺せたと思ふ。

今の日本は、西洋先進国の価値観に基づいて文化を作ってゐるから、
「どんな理由であれ、殺人は許されない」
と誰もが信じてゐる。「殺人による刑罰」の死刑が廃止される日はそんなに遠くないだらう。

こんな世界、こんな日本であるから、もし三島由紀夫氏が自衛隊員を一人でも殺してゐたら、あの事件の扱ひは二二六事件と同じになってゐるだらう。

それにしても戦争は無くならない。
わたしたちが日常生活を送る社会では、人間性の本質は巧妙に管理されて見えなくなってゐるけれど、人間は人間性においては誰も
「生命より大切なものは無い」
などとは思ってゐない。
そんなバカなことを信じてゐる人ばかりなら、映画を筆頭にさまざまな作り話の娯楽にあれほど人殺しが満ち溢れ、しかも、誰もがそれを観て楽しんで、その後のごはんが美味しいはずはない。

生命は、魂が何事かをなすための道具。
魂など、あるかどうか、わからない。
けれども、人間とはさう思ひ込むやう、「生命は、魂が何事かをなすための道具」と信じることで「人間としての暮らし」を送れるやうに、造られた動物だ。

人間が人間である限り、戦争、つまり自分たちの権利や自分たちが信じる大義や自分たちが捨てきれない恨みのために、人間が、自分の「生命を道具」にして戦ふことは、絶対に、無くならない。

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