言霊と仮名遣ひ

言霊。
あなたは、この言葉で何を思ひ浮かべますか?
どんなものだと思ひますか。

わたしは、古今和歌集の仮名序を思ひ出します。

この仮名序がわたしにとっての言霊の定義と例になってゐます。

この↓記事の

コメント欄に書いたことなのですが、今述べたとほり、
わたしにとっての言霊は、古今和歌集の序文に尽くされてゐます。
言霊といふものがあると感じたり経験したりすることは、個人の精神内界で起きるものであって、外界の社会や物理現象とは関係が無いといふことも言へると思ひます。
また、言霊による現象としてわたしたちが経験的に知ってゐることとそれが起きる機序について科学的な調査分析を重ねて理論化して仮説を確立した学者さんたちもゐるやうです。
わたしの場合、古今和歌集の序文を出して言霊を語りたくなるのは、言霊とは、
「詩を信じる」
といふ「行為」だと思ってゐるからです。

それもやはり個人の精神内界の活動であるかもしれませんが、それにしても、個人の行為も伴ひます。「詩を信じる」以上は、精神だけでなく現実世界にも働きかけます。
詩に限らず信じることは、思ふだけでなく、行為で補完しなければ、信仰として成り立たないからです。

この立場で言霊を語るなら、自ずと、言葉に出したことは行動によって完結させなれば、その言葉は言葉では無かった、といふことになります。言霊の宿らない、ただの物理的な音声だったことになります。

つまり、「~でありますやうに」と言葉に出して、言葉の魂や霊力を信じるのなら、ただ願ふだけに終はることができません。どうしても、信じる行為として、行動を始めなければならなくなります。
いはゆる言行一致を自分に課すことになり、場合によっては三島由紀夫氏の最後のやうな事態に自分を追ひ込んでしまふことも、起こらないとは限りません。

わたしの場合は、日本の文化を大切に思ひ、それが消えてゆくのはいやだと思ひ、それを口に出したからには、仮名遣ひを日本語の歴史との繋がりのあるものにしないではゐられないわけです。
つまり、「そうです」ではなく、「さうです」と書かないではゐられないのです。

古今和歌集「仮名序」

やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。

この歌、天地の開け始まりける時より出で来にけり。
しかあれども、世に伝はることは、ひさかたの天にしては下照姫に始まり、あらかねの地にしては素盞嗚尊よりぞ起こりける。

ちはやぶる神世には、歌の文字も定まらず、素直にして、事の心分きがたかりけらし。

人の世となりて、素盞嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字は詠みける。
かくてぞ花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露を悲しぶ心・言葉多く、さまざまになりにける。

遠き所も、出で立つ足下より始まりて年月を渡り、高き山も、麓の塵泥よりなりて天雲棚引くまで生ひ上れるごとくに、この歌もかくのごとくなるべし。






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