快楽を避けよ


わたしは、アルコール依存症を治らないものとして捉へて、自分のセックス依存症もさういふものなのだといふ意味のことを記事に書いたことがあるが、克服される方も少なくないやうだ。

わたしは克服できなかった。
妻様に依存してセックス依存症による行動化をなんとかいなしてゐるだけだ。頭の中は、いつも、被虐的な快楽の妄想が渦巻いてゐる。面目なく、情け無いことだ。
共依存によって相殺するしか無い依存症の例として、女性の自慰依存を、自分のセックス依存症になぞらへて書いてみる。

10年近く前まで副業で、心理カウンセラーをしてゐた。始める前に足掛け7年くらゐ、いろいろ勉強して勢ひ余って大学院の発達臨床にも入った(けど中退した)し、或る民間のカウンセラー養成機関の資格も複数取ったが、臨床心理士や公認心理師では無いので、まあ、モグリだと言はれても返す言葉は無い。
看板には箱庭療法を掲げてゐたが、それは本式のものではなかったし、対話への導入として最初の数回行ふだけだった。そもそもわたしは箱庭療法は信じてゐない。分析と育て直しといふ治療技法の根拠として頼ってゐたのは愛着理論と乳幼児発達心理学だった。 

そのモグリの心理カウンセラーだったとき、器具を使った自慰がやめられないといふ相談を女性から受けた。

今では珍しい依存症でもなくなってゐるやうだが、当時のわたしは女性から自慰依存で苦しんでゐると聞いて驚いた。時間を取られる、疲労する、満足感が無い、やめたいのにやめられない、仕事に遅れる、仕事を休んでしまふことが出てきた、何より自己嫌悪に苛まれる、もう死にたい、といふことだった。

わたしの患ふセックス依存症と同じだと思った。
虚無感自己嫌。
セックス依存症では、何をしても残るのは、この二つだけだ。話を聞くと、自慰依存でもさうらしかった。

まづ、器具について調べてみたら、女性用の自慰の器具が(わたしの世代から見ると)とんでもなく進歩してゐた。ここまで進歩させてはいけないとわたしは思った。まるで砂糖だと。

砂糖の甘さは不自然だ。自然ではあり得ない甘さだ。砂糖が精製されるやうになって人間の大半が甘味無しで生きられないカラダになった。
同じ成り行きで、自然にはあり得ない快感を引き出す洗練された器具でうっかり自慰をしてしまった女性には、毎日それ無しで生きられないカラダになる人もゐるやうだ。少なくとも、わたしはさうなった女性から相談を受けた。

わたし自身、ものごころついたときには毎日自慰をしてゐた。ただし、自分がしてゐることが性的行為といふ意味での自慰だといふことがわかったのは、性体験のあった十歳からで、それまでは、いつもつきまとふ身体のだるさや気分の落ち込みをいっときでも振り払へる、なんといふか、体操のやうなものとして受け止めてゐた。
だから、姉には早くから、知られてゐたが、知られたからやめるといふことは無かった。
たまに、姉が、朝、急に、わたしの部屋に入って来た時に、わたしが布団の中でごそごそしてゐると、
「しょう、また、してるん?もうやめとき」
と言はれたものだった。
十歳までは、さう言はれても、ちょっと恥ずかしいだけで、ひどく戸惑ったことがなかった。やめる気にもならなかった。
今、これを書きながら、姉とのやりとりを思ひ出すと、身の置き所が無いくらゐ、恥ずかしい。

言ひ訳を重ねるなら、幼稚園のときには、友だちの女の子からも「膝を擦りあはしたりソファの角に当てたりするといい気持ちになるから、しょうたろうくんもやってみて」などと言はれたことがあった。
だから、確かに人に見せられない、排泄器官である身体の部分を敷布団に押し付けて気持ちの良さを得てゐるといふ恥ずかしさはあったが、それ以上のものではなかった。腰ごと布団に押し付けるだけで、手を使ふことは思いつかなかった。手を使ふことは、やはり、十歳のときの性体験から知った。その時から、自慰が、滑稽な「手淫」となり陰鬱な「自瀆」なってしまったのだが、これはまた別の話になるので、後日書きたい。

さて、こんなことを述べたのは、子供の自慰は案外あるらしいことをやっと最近知ったからだ。そして、ふとしたことで幼い性器から未熟でささやかな快感を得ること、それは、いはば、自然な感覚で、普通の子供にとっては、耽溺してそれ無しではゐられなくなるものではないやうだ。

つまり、子供が虫の脚を一本ずつ抜いて楽しむのは、人間としての自然な嗜虐性の現れだが、心に偏りが無ければそれに耽溺することがないのと同じ理屈が、子供の自慰にも当てはまると思ふ。
わたしが耽溺したのは、子供のわたしが心身ともに鬱感に四六時中悩まされてゐたからだと思ふ。

(普通の定義は難しいが)普通は、健康の身体の快感に健康なる精神は、耽溺するものでは無い。
それは、大人の女性の自慰にも当てはまると思ふ。楽しむものではあるが、他のいろいろな楽しみがある中で、自慰はささやかな、「無いなら無いで困らない」といふ嗜好品の定義から外れないものであるはずだ。
人間の身体的な行為ではあり得ない快感を引き出す電子機器となった性具による女性の自慰は、心身が受容できる自然な感覚を遥かに超えてゐると思ふ。
かうなると、楽しみ、嗜好といったものではなくなる。
男性が、今どきのキテレツな内容となった動画のポルノを見て身体に感じる感覚に似て、媚薬や覚醒剤で神経をむりやり痙攣させて引きずり出す快感ではないかと思ふ。

話を聞くうち、女性がポルノ(AV)も見てゐて、それもやめたくてもやめられないと言ふので、わたしは、とても驚いた。見て性欲を掻き立てるのは男、と思ひ込んだゐたからだ。
けれども、局部の快感に耽溺するのは男性化してゐるとも言へるから、見ることから刺激を求め始めるのも自然な成り行きなのかもしれない。

自慰もAVを観ることも、やめたいのにやめられない。それで本人は苦しんでゐる。
AVにはこんなふうに耽溺することを精神の苦痛と捉へて苦しんでる女性は出てこないのだらう。ポルノといふセックスのお伽話に出てくるのは、おそらくセックスライフを愉しむ女性ばかりだらう。現実の世界でも、本人が心身ともに損失が無く、自尊感情も損なはれず、さらに他人や社会が迷惑してゐない限り問題は無い、かうした場合は、依存症と呼ぶことも出来ないと思ふ。
さうではあるが、さういふ人がどんな精神構造なのかは、わたしには、想像できない。AV女優からインフルエンサーに転じる女性も出て来てゐるやうだが、かういふ人の内面世界は、わたしはまったく理解出来ない。
それで、快感への耽溺が依存症となって苦しむ女性のことに戻る。

耽溺してしまふことの問題は、
第一には、耽溺することにやって求める快感が得られなくなる
第二に、それでもやめられない
ことだ。

わたし自身がセックス依存症の当事者なので、相手の女性の気持ちや体感はよくわかる気がした。
毎日自慰をするのは毎日快感を求めてゐるからで、求め続けるのは、いくら自慰をしても欲しい快感に手が届かないからだ。

最初に味はったはずの絶頂感は、どういふわけか、再現出来ない。さう感じた時から、自慰の繰り返しが始まり、一日とて休めない人生になる。
日常生活が脅かされ、自慰に耽るために会社を休み、仕事の間も自慰をしたいと考へるのがやめられない。
自慰を辞めたいといふ女性の話は、わたしが被虐的な性行為に対して依存症になってゐる様と瓜二つだった。

自然な身体性を無視して、映像や器具などによって末梢神経を震撼させて搾り出した快感は、最初はこの世のものとは思へない快楽だ。
実際、身体的現実には無い快感を、映像や器具によって乱打された脳が脳内の神経だけを使って脳内に生み出してゐる。
ポルノ小説もこの快感、この世のものではない快感が読者の脳の中で噴水のように吹きこぼれるのを目指して書かれる。
この快感、この世のものではない快感を、人は、快楽と呼ぶ。

快楽となった快感は、もはや、身体性を離れて観念の中に拡散してゐる。

快楽を追ふ身体は、その身体の感覚としての快感がみすぼらしくてたまらなくなり、逸脱した性行為、いはゆる変態や、社会規範や道徳に逆らふ状況での性行為、複数や不特定多数との性行為などを経て、つまるところ、器具や薬物を頼ることになる。

賢者は、ふるくから、
快楽を避けよ
と忠告して来た。自分たちが痛い目にあったからかもしれない。だから、おおむね年寄りの賢者たちの言ふことは、あまり、相手にされて来なかった。

自分も若い頃は楽しんだくせにと言はれれば、確かにさうだと認めざるを得ないのが賢者と呼ばれる人だからだ。

その女性とのカウンセリングは、一年数ヵ月で、わたしが心身の調子がわるくなって、事情を話して中断した。
知り合ひの臨床心理士の資格のある心理カウンセラーを紹介したが、そこには行かなかったやうだ。

その女性は、犬と暮らし始めたところだった。仕事に遅刻するとか休んでしまふといふことはなくなってゐた。AVは見なくなってゐた。
けれども、朝(休日は昼も)晩の自慰はやめられないままだった。身体の疲労感と自己嫌悪が、相変はらず、その女性を苦しめてゐた。引き続き生育歴について話を続けながら、月に一度だけ、まる1日の禁止日を設けて、それを守れるかどうか実験しようと勧めたところだった。





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