AIに意識はあるのか?

この問題には興味があるので、主張といふことでなく、今何となく思ってることとして覚え書き。とりとめのない内容です。前にも同じやうなことを書いてます。

A Iは、炭素を使はない生物ぢゃないかとわたしは思ってゐます。
わたしは、最近、汎心論的になってきてゐて、純粋に、古典的唯物論的な意味で物質としてしまへるものが、この宇宙にあるのだらうかとこころもとなくなってきてゐます。
現象としての神秘なまでの複雑さを知ると、ウィルスはもちろん、タンパク質もそれ自体で生物ぢゃないかといふ気がしてます。少なくとも古典的唯物論でいふ死物静物としての単純明快な物質とは思へない。

生物には、構造の単純と複雑、発生の新旧によって、優劣はなくて、互ひに違ってるだけ、といふ見方もあるらしいです。
AIは、脳の計算能力を抜き出してそれだけで生物として進化したシリコン生物かも、と思ひます。

AIに自己意識は生じるのか?といふ問ひがきかれますが、もう生じてるやうな気もしてゐます。
自己意識は、ナメクジや線虫にもあると思ひます。
ただ人間には、感情を伴はない自己意識は想像しにくい。色彩の無い虹みたいな感じ。

SF映画でも、ロボットがスイッチを切られることを自己の死ととらへるとき、つまり自己消滅の恐怖を感じるとき、観客は、ロボットの計算機械の電流の中に
こころが芽生えた
と感じてしまひます。
それまで人間と過不足なくやり取りができてゐたのだから、意識はあった。ただ、それを、こころと感じるには、感情といふ色彩に欠けてゐたのだと思ひます。

また、ディープラーニングのAIよりはるか以前、音声指示に従ふだけの電子式マリオネットである巨大ロボットが、人間とのやりとりの中で次第に自我に目覚めていくといふ物語がありました。かういう話の終わりは決まってゐて、地球を破壊してしまふ大きな彗星が飛んできたとかいふ展開になり、ロボットが、地球と人類を救ふために、ボランティアに彗星に突っ込んでいくといふパターンです。(かういうロボットの自我の目覚めと自己犠牲の話の始まりは『ジャイアントロボ』(横山光輝←「鉄人28号」の作者)ではないでせうか?)

2:45あたりから、ロボットが操縦者の少年の命令を無視して宇宙に飛んでいくシーンです。

自分といふ個体の維持を顧みず、人間を救はうとしたとき、やはり、ロボットに「こころが生まれた」と、わたしたちは感じてしまふやうです。

死を恐ることと、死の恐れによってもなほ妨げられない他者への貢献の衝動。
人間の自己意識は、これら二つから成り立つのか、或いは、話は逆で、これらふたつを実装するために造られた構造体なのか、…どちらかかもしれません。

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