群れと国家

群れがあるなら、生きるときは生きていけるし、死ぬときがきたら死ぬこともできる。

この群れの究極の進化形が、国民国家だ。
これは、孤独だと寂しくて気が狂ふ事実より、さらに、認め難く、面映い。

生きる意味も死ぬ意味も、国家が無ければ、どんなカタチに積み上げても砂の城だ。
国民国家は父母から成り立つ家族を構成要素にしてゐる。
男女の役割や、家族の上下関係などは、すべて、国民国家が支へてゐる。
人間が、役割や身分や属性から解放されるためには、それらを血肉とする国家といふ社会的有機体を殺さなければならない。

サヨクが、先づは、女性天皇を実現して、女系天皇を目論むのは、国家解体による人間解放を目指す限り、当然だ。
男女の非対称性は、男女の属性の始まりだ。男女は二個の卵のように見分けがつかなくなるまで平等にならねばならない。

わたしたちは、生きるために群れをつくる。
群れは、メンバーに役割を振り当てる。
多様な役割がある限り、役割の軽重と役割間のネットワーキングから、群れは限りな構造化され、メンバーは常に誰かの下であり誰かの上である。
メンバーの番号以外のアイデンティティは、属性である。自分が自分であるとは、自分とは、属性の或る束である、といふことだ。
女といふ属性でくくられるのがいやなら、属性を人間だけにするのがいいだらう。けれども、人間といふものも雑多な属性の束であるから、自由になるには、自分の属性は原子とする必要も出て来るだらう。

もちろん、サヨクはそんなバカなことを考へてゐない。
国家が解体されれば、アソシエーション(共同社会)が自然に生まれるといふのだ。
人々が自由に集ひ、主体的に参加し、生産手段の共有のもと、自分の能力と働く意欲に応じて働く社会だ。
生産者と生産手段の分離が無いから、搾取される労働者もゐない。
国家が無くなれば、そんな社会になるらしい。



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