六十路の峠を越えたら三叉路があった

 私が還暦を迎えた年は平成が終わる年。翌年の5月には新しい天皇が即位される事が決まっていました。
 そして迎えた2018年。平成最後のお正月でした。
 私たち家族は実家に集まってお節料理ややローストビーフを囲んで、両親や姉一家といつも通りにお正月を祝ったのでした。
 でも、2週間も経たずに私の母が自宅で脳出血で倒れました。救急搬送されたものの、翌日そのまま病院で亡くなりました。
 突然の母の死は本当にショックでしたが、それよりも気掛かりだったのはそ既に90歳を超えていた父の事でした。
 姉も私も父を自宅に引き取って介護するのは難しいし、父の薬の管理などを考えると老人ホームに頼むのがベストという結論になったのです。
 母は父より9歳も若かったので、自分よりも当然父の方が先に亡くなると考えていたことでしょう。
 父のコレクションした物を片付けたり、もう着ない古いサラリーマン時代のスーツやネクタイなどを処分し始めていました。
 母が亡くなり、食卓の上を片付けていると、状差しに近所のお寺の「納骨堂」のパンフレットがあったのです。
 父と母の故郷は横浜から遠く離れた岐阜県にありました。そこには父の実家の墓もあるのですが、遠いのでそこに自分たちが入るつもりは無かったのでしょう。
 私たち姉妹がお参りしたり、管理がしやすい近所の寺の納骨堂の方が良いと思ったのかも知れません。
 姉と私は、きっとそれが母の希望だったのだろうと、母の遺骨をそのお寺にお願いする事に決めたのでした。
 納骨までの間は、私が父の家へ泊まり込んで世話をしたり、姉が朝食を運んだりしていましたが、これでは自分たちの生活が成り立ちません。
 ヘルパーの方を頼んで、食事だけ用意してもらったりもしましたが、90を超えた父の一人暮らしは心配でしかありませんでした。
 私と姉夫婦でとにかく早急に老人ホームを探すことになりました。
 裕福な米問屋に生まれ育ち、舌の肥えた父でしたから、私と姉はあちこちのホームに見学に行き、とにかく食事が美味しい老人ホームを見つけ出しました。
 たまたまその老人ホームも姉の家に近く、そのお寺からも近い駅の最寄りにありました。
 こうして父はその老人ホームに3年間お世話になりました。
 私は仕事の無い日にはホームへ行って、父と一緒にお昼を食べたり、介護の様子や訪問診療の様子を見たりしました。
 時にはおやつにケーキや和菓子を持って行って、ラウンジでお茶を入れ、父と一緒に食べました。
 大好きなショートケーキを美味しそうに食べる父は、穏やかで幸せそうでした。
 母が亡くなったことなど普段は忘れているようにも見えました。
 父の居室には家から持ってきた小さな仏壇を置き、母の位牌とプリザーブドフラワーの仏花を飾ってありましたが、父はお参りするでも無く、淡々と日々を過ごしていたのです。
 そして3年目の3月、父は普段通りに昼ご飯を食べて、その後部屋で倒れているところを発見されました。
心臓マッサージを受けながら病院に運ばれたそうですが、病院でその晩息を引き取りました。
 ホームの介護スタッフや私たち家族は、警察の方から色々と状況を聞かれました。誰もみていない所で倒れていたのですから、無理もないのでしょうが、私たちは介護スタッフの方に良くしていただいていたし、トラブルは無かった事などを警察にお話ししました。
 心房細動の持病があって、ペースメーカーを入れていた父でしたが、最後に通院した際には「そろそろ電池の入れ替え手術をしなくてはならない。けれど全身麻酔が必要だし、1週間ほど入院しなくてはならない。」と医師からは言われていました。
 「病院は飯がまずいから嫌だ。1週間も入院か…」と父はしょんぼりしていたのを思い出します。
 通院に付き添っていた姉と私は「無理に入院して全身麻酔の手術をするのはかえってかわいそうだね」と、暫く様子を見ることに決めた矢先だったのです。
 父は心底入院するのが嫌だったのでしょう。

 3年の間に相次いで父母を見送り、全ての家財や預貯金を含めた財産を処分することになりましたが、私達姉妹は本当に恵まれていたと思います。
 母が倒れる3年前に、両親は住んでいた広いマンションを処分して、姉が住むマンションに近い賃貸マンションへ引っ越したのです。
 その時はまだ父もしっかりしていたので、自分で何を残したいのか?を判断できたのです。
 そして不要な物は粗大ゴミの業者に頼んで処分してもらいました。かなり価値のある家具や陶器などがありましたので、それは買い取ってもらい、処分費用は思いの外安く済みました。
 もちろん引っ越しは私や姉が手伝ったのですが、何よりも両親に引っ越しする気力がまだ残っていたのは大きかったと思います。
 マンションと言う不動産を処分しておいてくれたおかげで、最後に父が亡くなった後、私たち姉妹に残してくれた財産は預貯金のみだったのです。
 姉と私が普段から仲が良く、お互いに物に対する執着があまり無いので、遺産を分ける際に喧嘩する事もなく済みました。

 母の亡くなったのと同じ年の夏、夫の父も亡くなり、今年の夏には義母も亡くなりました。 
 夫の母は最後まで一戸建ての古い家に1人で住んでいましたので、こちらは最後に家と土地が夫と義兄に残されました。
 今世間でも問題になっている古い家の空き家がまた一軒増えたことになります。
 くしくも2024年からは相続登記が義務化されます。
たとえ家が建っていても税金がかなりかかるようになるそうです。
 更地にして売却するにしても相続登記を済ませていないと、売ることもできませんから、私が兄嫁に助言して「とにかく相続登記はしておきましょう」ということにはなりました。

 さて、私自身は60歳を過ぎてからも個人事業主としてセラピスト、講師の仕事と事務のパートを続けていましたが、コロナ禍と父の死で個人事業主の仕事は一旦廃業にしました。
 そして今年から年金を受給するようになりましたから、収入的にはもうパートの事務の仕事は辞めても良いのです。
 それでも、私と同い年の人もまだまだ働いている人がたくさんいます。それは経済的に年金だけでは不安という人もいるでしょうが、多くの場合は「社会と繋がっていたい」とか「やりがいがが欲しい」とか「ボケるのを防ぐために」など様々な理由で働いているのだと思います。60歳過ぎても働き続けるのがまず第一の道とします。

 一方で年金をもらって、仕事も辞めて趣味に時間を使いたい。とか、あるいはペットと過ごす時間を作りたい。という人たちもいます。年金や貯蓄が十分ある人ならそれで良いと思うでしょう。ところが仕事を辞めた途端、子どもたちから「孫を預かって欲しい」とか「保育園や習い事の送り迎えをして欲しい」と頼まれてしまいます。 
 小さな子どもの世話は、六十路を越えた親たちには体力的にも責任の重さも大きすぎます。
 それでも断れないのは、孫のためというよりも、子ども可愛いさのためでしょうか。
 仕事を辞めたら孫の世話というのは第二の道でしょうか。

 また、夫が定年になった事で人生が変わる人も多いと聞きます。例えば、定年を迎えた夫から「実は新潟県に古民家を買ったから移住したい」などと突然言われるのです。
 今住んでいる家を売って、不動産や生活費が安い地方へ移住する事で、新しい人生を謳歌するもいるでしょう。
 ところが妻の方はどうでしょう?
 自分の親がまだ健在だったり、先ほど書いたように、孫の世話を頼まれたりで、夫よりも忙しくてとても地方へ行きたくないという人が多いのではないでしょうか。
 結果として60歳を過ぎてから夫婦別居になってしまったり、田舎と都会の二拠点生活を強いられて、老後資金はどんどん減ってしまうかも知れません。
 こんな生活は長続きしないでしょうし、田舎暮らしのデメリットは、医療問題や光熱費が想像より嵩んでしまうなど、意外な盲点もある様です。
 特に交通手段が自家用車だけの場合は、ガソリン代の高騰は由々しき問題でしょう。年取って運転も覚束なくなるかも知れません。もしも田舎暮らしの夫が先に倒れたら…。老後の田舎暮らしは第三の道かも知れません。

 若い時から働き続けてやっと六十路の峠を越えたのに…その先には何とも選択に迷うような三叉路が、あるいはもっと複雑な迷い道が待ち受けているのです。




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