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妬みと承認欲求

[サムエル記 第一 18:3,4]

ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。

今日の聖書箇所
Iサム18:1〜9

今日もサムエル記から恵みをいただいていきましょう。

ダビデはゴリアテを倒して、サウルの息子ヨナタンと出会います。これは運命的な出会いでした。ヨナタンはただ信仰のみによってゴリアテを打ち倒したダビデを見てダビデを心から愛するようになりました。

ヨナタンはダビデと深く真実な友情を築くようになります。そしてヨナタンは自分の上着と武具までダビデに与えてしまうのです。上着と武具はヨナタンの自分と地位を象徴するようなもので、ヨナタンがそこまでしたのは主がダビデを選ばれたことを感じていたからではないかと思われます。

ヨナタンも信仰によってただ一人でペリシテ人に戦いを挑み、イスラエルに大勝利をもたらしました。同じようにダビデがゴリアテを倒して、イスラエルに大勝利をもたらしたのを見て、ヨナタンは自分と同じ信仰と霊性、いや自分以上の信仰と霊性を持っていることを感じ取ったのでしょう。

ヨナタンは自分のようにダビデを愛するようになります。それは自分と同じスピリットを持っている者への愛でした。心が通じたというよりもっと深くお互いの霊が共鳴したのでしょう。

ヨナタンも信仰の人、神の人でした、それゆえに信仰の人、神に選ばれた人であるダビデを認め、心から尊敬することができたのです。ヨナタンは王子であり。ダビデは卑しい羊飼いに過ぎませんでしたが、ヨナタンはそれら全てを超えて、ダビデに与えられている油注ぎ、ダビデの神への愛と信仰を認め、それを尊んだのです。

ヨナタンは自分の立場や地位、名誉にこだわるのではなく、どこまでも神の選び、神の油注ぎを尊重しました。それはヨナタンの神を愛する信仰から生まれたものだったのでしょう。ヨナタンは自分が認められることではなく、神が認めるものを最優先して、そのためには犠牲を払うこともいといませんでした。

一方サウルはダビデが大いに活躍し、人々から認められ、賞賛された時に激しい妬みと猜疑心に囚われてしまいます。

[サムエル記 第一 18:8,9]

サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。

サウルは元々深い劣等感を持っていましたが、そこから生まれる激しい妬みをダビデに抱くようになります。

そのサウルの妬みはますます燃え上がりやがて自分の一族とイスラエル全体に大きな災いをもたらすこととなっていきます。

サウルも表面的にはイスラエルの神を信じていました。しかしそれは神を愛する信仰ではなく、ただ神を利用するご利益信仰でした。それはサウルの肉の性質をますます強くし、サウルを滅亡へと追い込んでいくことになります。

私たちの肉の性質に承認欲求というものがあります。人に認められたい、賞賛されたいという欲求です。この裏返しが劣等感であり、妬みです。

子どもが小さい時に親は最大限に子どもを認めてあげ、ほめてあげ、健全なセルフイメージを持つことができるように育てるべきです。

しかし人にはみな罪があり、この承認欲求が親によって完全に満たされることはないでしょうし、たとえ十分に認められて育ったとしてもそれでもまだ認められたいという欲求は残ります。

その劣等感や妬みのゆえに、また人に認められたいためにどれほど罪を犯し、失敗してしまうことでしょう。

聖書は妬みは肉の働きであると明確に教えています。承認欲求も妬みと同じく肉の働きです。

[ガラテヤ人への手紙 5:19,20,21]

肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。

どうしたら妬みや承認欲求から解放されることができるのでしょうか?カウンセリング、インナーヒーリングや心理学で心の傷を癒すことで解放されるのでしょうか?

それらは部分的で一時的な効果しかないのではないでしょうか?。やはりまた妬んだり、劣等感に陥ったり、人に認めてほしいという自分が出てくることでしょう。

妬み、劣等感、承認欲求からの解放は神を愛することによって与えられるのです。神の愛を注がれ、神を愛するようになっていく時に初めて自分を愛し、自分にこだわることから解放されていくのです。

ヨナタンにはその神を愛する真実な信仰があり、サウルはどこまでも神を利用する偽りの信仰しかなかったのです。

私たちもまた神を愛する者へと変えられていかない限り、いつまでも劣等感や妬み、承認欲求という肉の欲によって振り回され、やがてそれを通して働く悪魔の奴隷となってしまうことを覚えていきたいと思います。

自分中心の肉的な信仰から神中心の霊的な信仰へと成長していくこと、その時私たちを苦しめる妬み、劣等感、承認欲求から解放されていきます。

どうしたらそんなことが起こるのでしょうか?祈って聖霊に満たされること、そして油断せず聖霊に満たされ続けることしかありません。

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