見出し画像

道徳的な悪霊

[コロサイ人への手紙 2:16,17]

こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。

今日の聖書箇所
コロサイ2:16〜23

今日もコロサイ書から恵みをいただいていきましょう。

コロサイ教会には偽教師が入り込み,イエス・キリストの福音を信じるだけでは不十分でユダヤ人のように土曜安息を守らなければならない,ユダヤ人のように新月祭や各種の祭りを祝わなければならない,ユダヤ人のように食物規定も守らなければならない,そして肉体的な苦行をして天使を見るような特別な霊的な体験もしなければならないと教えていたようです。そのような行いをしないと救われないとか,完全にはなれないとか,上級クリスチャンにはなれないとか教えていたのではないかと思います。

ユダヤ教的な律法主義と神秘主義がミックスされた異端が入り込んでいたのです。これに対してそれらはただの騙しごとの哲学で,苦行や修行のゆえに人が見ると熱心で信仰深く見えるのですが全く無価値で無力で何の役にも立たないと断言するのです。

なぜなら旧約時代の律法にある安息日も各種の祭りも食物規定も全ては本体であるイエス・キリストの影にすぎず,本体であるイエス・キリストが来られ,十字架と復活によってその救いが成し遂げられた以上,もう役割を終えたからです。

これらの旧約律法は全てやがて来るメシアを待ち望むためにあったからです。それはあたかも家を建てる時の設計図のようなもので家が建てられ完成したならその設計図の役割は終わるのと同じで,それらの律法の役割は終わるのです。

しかし初代教会以来,律法主義的な異端というのは繰り返し現れており,また禁欲主義という苦行によって神秘的な体験を求める神秘主義もいろいろと形を変えて現れているのです。

そして多くの人々がそういった偽りに惑わされてしまうのです。なぜなら律法主義も神秘主義も自分により頼み,自分を誇ることができるからです。自分はこれだけ戒めを守ったという自分の行いを誇り,自分はこんな特別な霊的体験をしたという自分の体験を誇ることができるからです。

罪とは神により頼まないで自分により頼むことであり,神を誇るのではなく自分を誇ることだからです。それが人間の肉の性質なのです。律法主義も神秘主義もそれらの人間の根源的な罪の性質にピッタリと合致するので,人々はそれらの教えに夢中になってしまうのです。

律法主義も神秘主義もどんなに神様,神様,イエス様,イエス様と言っていても自分で自分を救おうとしているだけなのです。

しかし聖書が明確に教えていることは人は自分で自分を救うことはできないということなのです。どんなに律法を守り良い行いをしても,どれほど神秘的霊的な体験をしても,人のいのちは罪によって腐敗しており,一つの罪を克服したと思った瞬間すぐにまた別の罪を犯してしまうからです。

罪によって腐敗したいのちは結局のところ自分しか愛することはできず,どんなに立派なことをしても結局のところは全て自分のためであり,どう転んでも神を愛することはできないからです。そのような救いようのない罪人のためにメシア,イエス・キリストが来てくださり,その十字架と復活によって全ての罪を赦し清め,信じる者に聖霊という神のいのちを与えてくださり,その新しいいのちに生かされ歩む時に初めて自分ではなく神と隣人を愛する者となることができるようになっていくのです。

罪によっていのちの源である神と断絶した腐敗したいのちはどんな律法によっても
,またどんな神秘的な体験によっても腐ったままなのですが,ただイエス・キリストを信じて聖霊をいただく時にその腐った古いいのちは死んで,神を愛する新しいいのちが与えられていくのです。それがキリストと共に死んでキリストと共に復活するということです。

[コロサイ人への手紙 2:10,11,12]

あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。

そして私たちがそのイエス・キリストとますますしっかりと結び合わされていけばいくほど,私たちはイエス・キリストに満たされていき,その時,ますます罪に勝利し,死に勝利し,悪魔に勝利していくようになり,栄光から栄光へと変えられていくことになるのです。

私たちに必要なのはもはや律法でも禁欲でも神秘的体験でもなく,ただイエス・キリストだけであり,イエス・キリストご自身にしっかりつ結びつくことだけなのです。そのためにはイエス・キリストご自身である御言葉にしっかりととどまり,祈ってイエス・キリストが与えてくださる聖霊に満たされていかなければなりません。

その時,初めて私たちは霊的に成長し,神を愛し隣人を愛する愛の実を結ぶことができるようになっていきます。

それだけが重要なこと,必要なこと本質的なことであり,それ以外のどんなことも,どんな律法も神秘的な体験も,しるしと不思議も奇跡も,重要なことでも必要なことでもないのです。

私たちが集中しなければならないことはただイエス・キリストとその御言葉だけであり,私たちがしなければならないことは祈って聖霊に満たされることだけなのです。そこから引き離すものは全てこの世の霊,偽りの霊によるものであり,どんなに信仰的霊的に見えてもただの幼稚な騙しごとの哲学に過ぎず,自分を愛し誇りたいという肉の欲に対しては全く無力なのです。

道徳的宗教的な悪霊に惑わされることなくかしらであるイエス・キリストにしっかりと結び合わされていくことに集中していきたいと思います。

今日の祈り
主よ,何が大切なのかを見分ける霊的な分別力を与えてあなたに集中させてくださり,真の霊的な成長へと導いてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?