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聖霊の御声

[使徒の働き 10:17,18,19,20]

ペテロが、今見た幻はいったいどういうことだろうか、と一人で思い惑っていると、なんと、コルネリウスから遣わされた人たちがシモンの家を捜し当てて、その門口に立ち、声をかけて、「ペテロと呼ばれているシモンはここに泊まっていますか」と尋ねていた。ペテロは幻について思い巡らしていたが、御霊が彼に言われた。「見なさい。三人の人があなたを訪ねて来ています。さあ、下に降りて行き、ためらわずに彼らと一緒に行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのです。」

今日の聖書箇所
使徒10:17〜33

今日も使徒の働きから恵みをいただいていきましょう。

ペテロは大きな敷布の幻を3回も見せられ,その幻について思い惑っていました。そんな時にコルネリウスから遣わされた人々がペテロを訪ねてきたのです。そして御霊はペテロにその人々と一緒に異邦人コルネリウスを訪ねるようにと語られたのです。

聖霊はまさにジャストタイミングで語られます。聖霊が語られる時にはそれが聖霊の導きであるというしるしも与えてくださることが多いのです。ただの幻や思い込み,こじつけではなく実際的な事柄も伴うということです。それによって聖霊の御声かどうかを確認し,分別できることが多いのです。

ペテロが聖霊の御声に従うためにはユダヤ人としての伝統を乗り越えなければなりませんでした。

[使徒の働き 10:28,29]

その人たちにこう言った。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。それで、お招きを受けたとき、ためらうことなく来たのです。そこでお尋ねしますが、あなたがたは、どういうわけで私をお招きになったのですか。」

これは簡単なことではありませんでした。なぜならペテロがユダヤ人の伝統を破るなら彼は多くの人から非難中傷されることになるからです。ユダヤ人にとっては異邦人と親しく交わるということは神の律法に背く重大な罪でありタブーだったからです。

しかしペテロはそれを覚悟の上で御霊の導きに従ったのです。ペテロは十字架を負うことを覚悟したということです。ペテロは自分の肉の考え,判断,感情,利害損得などを全て捨てて聖霊の御声に従ったのです。

聖霊はそのように従順に従う心のある者に語ってくださるのです。私たちでも語っても従うことはないと分かっている人には何かを語ろうとはしないのではないでしょうか?同じように聖霊も従う心のある人に語ってくださるのです。

どうして聖霊は何も語ってくれないのか?と文句を言う前に私たちは自分に従う心があるか,また自分が今まで語られたことに従ってきたかを点検しなければならないことが多いのではないかと思います。

その不従順という罪を悔い改めて,初めて御霊は再び私たちに語り始めてくださるのではないでしょうか?

また聖霊は謙遜な者に語ってくださいます。ローマ軍の士官であったコルネリウスはペテロとあった時にとても謙遜な態度を示しました。

[使徒の働き 10:24,25,26]

そして次の日、ペテロはカイサリアに着いた。コルネリウスは、親族や親しい友人たちを呼び集めて、彼らを待っていた。ペテロが着くと、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。するとペテロは彼を起こして、「お立ちください。私も同じ人間です」と言った。

コルネリウスはユダヤを支配しているローマ軍の士官でありペテロはただのユダヤ人の漁師でした。しかしコルネリウスにはそのペテロの前にひれ伏すことができる謙遜な心があったのです。もちろん人間の前にひれ伏すことは間違っています。しかしコルネリウスにはペテロをあたかも神の使いとして畏れ敬う謙遜な心があったということです。

そのような謙遜な心を持つコルネリウスに聖霊は語ってくださったのです。聖霊は高慢な人が嫌いであり,聖霊は謙遜な人を好まれるのです。聖霊はその思いのまま風のように働かれますが,それは聖霊が好まれる人に働かれるということでもあります。

私たちは聖霊が好まれる人でしょうか?謙遜で信仰に満ちた人でしょうか?どうして聖霊が働いて下さらないのか,私たちは自分の心を点検していく必要があるのではないでしょうか?

ペテロが聖霊の御声に従順に従ったところ,そこには救いを待ち望んでいた人々が数多く用意されていたのです。ペテロが人々を集めたのでもなく,説得したのでもありません。まさに救われるために準備されていたような人々が既に用意されていたのです。主は備え主でした。それによって異邦人伝道という扉がいよいよ開き始めるのです。

私たちも聖霊の御声に従うなら驚くべき主の備えの中に歩むことができ,主の力ある御業が現れるのです。そのために必要なのは十字架を負っても従うという従順な心と謙遜な心なのです。

今日の祈り
主よ,高慢で頑なになりやすい者を憐れんでください。聖霊が好まれる従順で謙遜な心を与えて聖霊の御声に従う者とさせてください。

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