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何のために礼拝するのか?

[へブル人への手紙 7:1,2,3]

このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。

今日の聖書箇所
ヘブル7:1〜10

今日もヘブル書から恵みをいただいていきたいと思います。

ヘブル書の著者は大祭司なる神の御子イエス・キリストについて本格的に論じ始めます。

当時,エルサレムにあった神殿ではレビ族,アロンの血筋をひく大祭司がいて律法に基づいてさまざまは祭儀をしていました。ユダヤ人クリスチャンたちの中にはイエスから離れてそちらに戻ろうとする人たちもいたのです。

目に見えるところを見るならエルサレム神殿は壮大で,大祭司はきらびやかで美しい祭服をまとっていたのです。それに対してイエスを信じる者たちには小さな建物一つもありませんでした。

しかしヘブル書の著者は目に見えるもので揺れ動くユダヤ人クリスチャンたちに彼らが信じるイエスこそ天の大祭司,真の大祭司であり,地上にいる大祭司はその影にすぎないことを教えていくのです。

そのために創世記に出てくるサレムの王メルキゼデクを取り上げるのです。このメルキゼデクという人物は謎の人なのです😅

しかしイスラエルの民の父であったアブラハムがこの謎の人物メルキゼデクに十分の一の捧げものを捧げ,このメルキゼデクから祝福を受けているのです。

[創世記 14:18,19,20]

また、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より。いと高き神に誉れあれ。あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

このメルキゼデクは真の大祭司,天の大祭司,永遠の大祭司となられるイエスをあらかじめ示す予表であり,イエスの影なのです。その永遠の大祭司イエスはエルサレムの神殿で仕えている祭司たちとは比較にならないほど優れた御方であることを明らかにしていくのです。

[へブル人への手紙 7:4]

さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。

地上の大祭司たちはアブラハムの子孫レビ族アロンの子孫たちでしたが,アブラハムがメルキゼデクに十分の一の捧げものを捧げることで,レビもまたこのメルキゼデクに十分の位置を捧げていると言うのです。

[へブル人への手紙 7:8,9]

十分の一を受けているのは、一方では、死ぬべき人たちですが、他方では、生きていると証しされている人です。言うならば、十分の一を受け取るレビでさえ、アブラハムを通して十分の一を納めたのでした。

そしてイスラエルの民の父であったアブラハムもメルキぜデクから祝福を受けているのです。

[へブル人への手紙 7:5,6,7]

レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、同じアブラハムの子孫であるのに、民から、すなわち自分の兄弟たちから、十分の一を徴収するように、律法で命じられています。ところが、レビの子らの系図につながっていない者が、アブラハムから十分の一を受け取り、約束を受けたアブラハムを祝福しました。言うまでもなく、より劣った者が、よりすぐれた者から祝福を受けるものです。

イスラエルの民に祭司が与えられたのは何のためであったかと言うと,民に代わって礼拝と祈りをもって神に仕え,民に罪の赦しと祝福を取り次ぐためでした。ヘブル書の著者は目に見える神殿で仕えている祭司たちは不完全で不十分な存在であり,永遠の大祭司となったイエスを通してのみ神に近づくことができ,そのイエスを通してのみ永遠の罪の赦しと祝福を受けることができるのだと言っているのです。

これらのことはユダヤ人クリスチャンたちにとっても固い食物でした😅ましてや異邦人である私たちには本当に固い食物になってしまいます😅😅

簡単に言ってしまえば,永遠の祭司であり,真の祭司であるイエスから離れるなということであり,そのイエスを通して,またそのイエスにならってあなた方も神に仕えなさいということなのです。なぜならイエスを信じる者もイエスによって王である祭司になったからなのです。

[ペテロの手紙 第一 2:9]

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

祭司の役割は礼拝を捧げて主に仕えることであり,また民の罪のためにとりなし祈ることです。永遠の祭司であるイエスを信じてイエスにつながる者となった者たちの最優先の務めは主に礼拝を捧げることであり,また民に代わってとりなし祈ることにあるのです。

私たちは祭司として主に仕えているでしょうか?イエスを信じる者たちが最優先すべきものはまず礼拝なのです。私たちは礼拝についてどのようなイメージを持っているでしょう?多くのクリスチャンは恵まれるために礼拝に行くと言います。確かに礼拝を通して恵みを受けるのですが,それ以上に大切なことは礼拝は受けるためにあるのではなく捧げるためにあると言うことです。

礼拝はまず主に捧げるためのものであり,主に仕えるためのものなのです。そのような心で礼拝を捧げるなら,それこそ霊と真による礼拝となり,そのような礼拝が主の受け取られる時にそこに天が開かれ,主の臨在と栄光が満ち溢れ,恵みが満ち溢れるのです。

メルキゼデクが示す永遠の大祭司となってくださった神の御子イエスを通して私たちもまた王である祭司として神が喜んで受け取ってくださる礼拝を心を尽くして捧げ,また人々が主に近づくことができるようにとりなしの祈りを捧げ続けていきたいものです。

今日の祈り
主よ,永遠の大祭司となって神に近づく道を開いてくださったことを感謝します。私もまた礼拝ととりなしの祈りを通して主に仕える者とさせてください。

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