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霊の力と霊の感覚

[サムエル記 第一 2:29,30]

なぜあなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住まいで足蹴にするのか。なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうちの、最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。それゆえ──イスラエルの神、主のことば──あなたの家と、あなたの父の家は、永遠にわたしの前に歩むとわたしは確かに言ったものの、今や──主のことば──それは絶対にあり得ない。わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。

今日の聖書箇所
Iサム2:22〜36
今日もサムエル記から恵みをいただいていきましょう。

祭司エリの息子たちは礼拝の捧げものを盗み、また幕屋で仕える女たちと姦淫の罪を犯していました。祭司エリはそれを聞いていながら、それに対して何も対処しなかったのです。

[サムエル記 第一 2:22,23,24]

さて、エリはたいへん年をとっていたが、息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終を、それに彼らが会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞いていた。それでエリは彼らに言った。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は主の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。

祭司エリはここで息子たちを戒めているように見えますが、そうではありません。ただ口先で注意しているだけです。結局は息子たちの罪を容認しているのです。

エリの息子たちは主に対しても、人々に対しても重大な罪を犯していました。注意して聞かなければ、祭司の職から外すべきでした。断固とした対応が必要だったのです。しかしエリは弱く、何もできなかったのです。息子たちに対する権威がまるでなかったのです。

このような親子関係は長い時間の中で形成されたものでしょう。息子たちもおそらく最初からこれほどひどい罪を犯していたわけではなかったのではないかと思います。最初はほんの少しのずれだったのではないでしょうか?しかしエリがこれくらいは大丈夫だろうと何も言わず、何もしなかったのでしょう。そのような事が積み重なって、遂にはもう取り返しのつかないずれとなってしまったのです。

エリが息子たちを甘やかせてしまったこと、それは結局息子たちを滅ぼすことになり、また子々孫々に及ぶ呪いを招くことになってしまいました。

愛するとは決して甘やかすことではありません。愛するなら間違っていることを戒めなければならず、それでも言うことを聞かなければ懲らしめを加えなければならない時もあり、義を行うことができるよう訓練しなければならないのです。これが父の愛であり。権威ある者の役割です。

間違っていることをしているのを見ながら、人間は弱いからね、いいんだよ、神様は愛だから人の弱さを理解してくれるから大丈夫だよ、いつかできるときが来たら直せばいいんだよとなどと甘やかしているなら、それはその人を滅ぼすことになってしまいます。神はアダムとエバを限りなく愛していたゆえに、彼らが決して死なないように善悪の知識の木の実をとって食べてはならない、それを食べるなら必ず死ぬと言われたのです。

エリは全くそのような事をしてこなかったのです。その結果、息子たちはもう何を言っても言うことを聞かないモンスターのようになってしまい、神の裁きを受けて滅びることになってしまいました。

わずかのずれを放置するなら取り返しのつかないずれとなって滅びに至ってしまいます。それゆえ嫌われても、反発されても、聞いてくれなくてもそれを明らかにし、戒め、悔い改めへと導き、日ごとにずれを修正してあげること、それこそが真の愛ではないでしょうか?神の聖なる裁きも地獄もあるなら、どんなに耳障りが悪くても、聞きたくないと言われても、絶対に神の裁きを受けて、地獄に行かないように警告し、教え、戒め、義のために生きるように訓練してあげること、それこそが真の愛ではないでしょうか?肉が喜ぶ甘えと霊が喜ぶ愛は全く違うと言うことを心に刻みたいと思います。

エリはどうして父親としても、祭司としても権威を失ってしまったのでしょうか?

[サムエル記 第一 2:27]

神の人がエリのところに来て、彼に言った。「主はこう言われる。あなたの父の家がエジプトでファラオの家に属していたとき、わたしは彼らに自分を明らかに現したではないか。

エリは祭司でしたがこのときもう主の御声を聞くことができなくなっていたのです。それゆえエリに神の人が遣わされ、神の言葉が語られているのです。エリはもう職業宗教家ではあっても全く神の人ではなかったのです。霊の力も霊の感覚も失っていたのです。それゆえ霊の力のないエリには全く権威がなかったのです。

どうしてエリは主の御声を聞けなくなってしまったのでしょうか?それは祈りを失い、礼拝を失い、神との交わりを失ってしまったからです。それゆえ自分の家もイスラエルの民も治める力を失ったのです。

霊的な力のあるところに霊的な権威があります。霊的な感覚のあるところに霊的な分別力があります。

その霊的な力と感覚は礼拝と祈り、神との親しい交わりの中でしか与えられることはありません。最後の士師と言われるエリはそれを失い、幼子サムエルにはそれが与えられていきました。

その結果、エリはイスラエルの家と自分の家を治める力を失い、サムエルはその力が与えられていったのです。

神が与えてくださっている権威が正しく働かないとき、そこには混乱と無秩序と堕落が生じます。その権威が回復され正しく機能し始めるなら、そこには癒しと秩序が与えられていきます。その権威はただ神との関係の近さから生まれます。

手のつけられない問題を前にして途方に暮れるとき、まず礼拝と祈りを通して神との関係を回復し、霊の力と霊の感覚を与えていただき、霊的な権威を身につけていくこと、そのことに集中していきたいものです。

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