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神に用いられる人

[使徒の働き 9:10,11,12,13,14,15]

さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。すると、主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名のタルソ人を訪ねなさい。彼はそこで祈っています。彼は幻の中で、アナニアという名の人が入って来て、自分の上に手を置き、再び見えるようにしてくれるのを見たのです。」しかし、アナニアは答えた。「主よ。私は多くの人たちから、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから与えられています。」しかし、主はアナニアに言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。

今日の聖書箇所
使徒9:10〜22

今日も使徒の働きから恵みをいただいていきたいと思います。

パリサイ人であったサウロは教会を激しく迫害していました。そして国外のダマスコにまでクリスチャンを捕らえるために出かけていきました。その途中で天からの光に照らされ,復活のキリストと直接出会うと言う劇的な体験をします。

それによりサウロは目が見えなくなってしまうのです。その後,サウロはダマスコで三日三晩,食べることも飲むこともしないで暗闇の中を過ごします。その間,サウロは自分がクリスチャンを激しく迫害してきたことを深く,深く悔い改めながら祈っていたのです。

そんな時に主はダマスコの町に住んでいたアナニヤという敬虔な聖徒にサウロのもとに行き,手を置いて祈るようにと語られるのです。

アナニヤは最初,その主の御声に躊躇しました。サウロが有名な迫害者,教会の敵であったからです。しかし主はアナニヤに「行け」と命じられ,アナニヤがそれに従った時,サウロの目からうろこのようなものが落ちて,アナニヤはサウロにバプテスマを授け,サウロは新しく生まれ変わるのです。ここから迫害者サウロは伝道者パウロへと変わり始めるのです。

初代教会最大の伝道者であり使徒であるパウロの誕生において,アナニヤという聖徒が果たした役割は決定的に重要でした。アナニヤがいなければ伝道者パウロは誕生しなかったとも言えるのです。

そのアナニヤという人はどのような人だったのでしょうか?アナニヤは使徒でもなければ伝道者でもありませんでした。初代教会の聖徒の一人でしたが,しかし敬虔な信仰者でした。

第一にアナニヤは深い祈りの人でした,アナニヤは主が語られた時にすぐにそれが主の御声であることが分かりました。それだけいつも主と深い交わりを持ち,主の御声をいつも聞いていた人だったということです。

アナニヤは主に語りかけられた時に「主よ。ここにおります」と答えています。アナニヤにとってイエス様は「主」であったのです。イエス様はアナニヤの人生のご主人であり,人生の中心であったということです。

アナニヤはあらゆることについて主に伺い,その御声,その導きに従う歩みをしてきたのでしょう。アナニヤと主はとても親しい関係にあったのだと思います。それゆえ主はサウロを回心させるという重大な働きをアナニヤに委ねられたのだと思います。

第二にアナニヤは自分を捨てて主に従う従順の人でした。アナニヤにとっても迫害者サウロはとても恐ろしい存在だったのです。サウロに会うなら逮捕され,場合によっては殺される可能性さえあったのです。またステパノの殉教にも加担した迫害者サウロに対して赦せない感情を持っていたとしても不思議ではありません。

それゆえアナニヤはその事を主に訴えるのです。しかしそれでも主が「行け」と命じられるとアナニヤは自分の考え,感情を全て捨てて主に従うのです。そのアナニヤを通して迫害者サウロが伝道者パウロへと変えられていくのです。

アナニヤに特別な賜物があって何か奇跡が起こったとは聖書には記録されていません。しかしそのアナニヤを通して伝道者パウロが生まれることとなり,そのパウロを通して地の果てまで福音が届けられるという神の偉大なご計画が実現していくのです。

パウロは生涯,このアナニヤを忘れることはなかったと思います。

[使徒の働き 22:12,13]

すると、律法に従う敬虔な人で、そこに住んでいるすべてのユダヤ人たちに評判の良い、アナニアという人が、私のところに来て、そばに立ち、『兄弟サウロ、再び見えるようになりなさい』と言いました。するとそのとき、私はその人が見えるようになりました。

私たちは何か特別な賜物がなければ主に用いられないと考えたり,あるいは人目につく働きをしなければ主に用いられたことにはならないと思ってしまうことが多いのではないでしょうか?

しかしそうではないのです。アナニヤのように深い祈りの人となり,日々主の御声を聞いて自分を捨てて主に従うなら,私たちもまた神のご計画の中でなくてはならない役割を果たすことができるようになるのです。

その時,私たちもまた魂の救いという最大の奇跡において用いられていくことになるのです。

今日の祈り
主よ,祈りではなく肉の力で動こうとする者を憐れんでください。深い祈りの人となり,十字架を負って主に従う真の弟子としてください。

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