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平安の秘訣

[創世記 43:16,17,18]

ヨセフは、ベニヤミンが彼らと一緒にいるのを見るや、彼の家を管理する者に言った。「この人たちを家に連れて行き、家畜を屠って料理しなさい。この人たちは私と昼食をともにするから。」その人は、ヨセフが言ったとおりに、一同をヨセフの家に連れて行った。一同はヨセフの家に連れて行かれたので、怖くなって言った。「われわれが連れて来られたのは、この前のとき、われわれの袋に戻されていた、あの銀のせいだ。われわれを陥れて襲い、奴隷としてろばとともに捕らえるためだ。」

今日の聖書箇所
創世記43:15〜24

ハレルヤ😇

週末のお休み、どのようにお過ごしでしょうか?

今日も創世記から恵みをいただいていきましょう。

ヨセフの兄たちは遂にベニヤミンを連れてヨセフの前に出ます。するとヨセフは兄弟たちを自分の家へと招き、一緒に食事をしようとします。

しかし兄たちは恐怖に震えます。ヨセフは食糧の銀を盗んだということで自分たちを捕らえ、奴隷にしようとしていると誤解するのです。

このようにヨセフの兄たちが恐れに縛られているのは、ヨセフを売り飛ばした罪の罰を受けていると思っていたからです。それゆえ全てのことを悪く、否定的に捉え、疑い深くなっているのです。

これが罪を隠し持っている人間の姿なのです。人はみな罪を犯してしまいます。そしてそれを忘れ、何でもないかのように生活しているのですが、その罪は罪責感として人の心に深く残ってしまい、その罪責感がやがて恐れとなり、不安となり、猜疑心となって現れてしまうのです。

ヨセフの兄たちはヨセフの愛と善意を全く受け取ることができなくなっています。同じように私たちも罪の赦しを受け取ることができないと神の愛と善意を受け取れないのです。ヨセフの兄たちがヨセフを恐れたように、私たちもまた罪があるままでは神を恐れます。

ヨセフの兄たちがヨセフを売ってから13年の年月が経っています。しかしどれほど年月が経っても、何一つ罪責感から解放されることはありませんでした。かえってそれはヨセフの兄たちをますます苦しめ、悩ませるものとなっているのです。

同じように私たちも罪の赦しを受け取ることができなければ、それは年月が経てば経つほど私たちを苦しめることになります。若い頃はそれでも若さでそれを誤魔化すこともできるでしょう。しかし年齢を重ねるなら、若さではどうすることもできなくなります。

「天国は本当にある」という映画がありましたが、その中で死を前にした老人に牧師が赦しを受けたいことがあるかと聞かれ、「全てだ」と答える場面がありました。とても印象的な場面でした。

私たちが死を前にして一番思うこと、それは自分の罪であり、その罪を赦してほしいということではないかと思います。

ヨセフの兄たちはこの後にその罪の赦しをヨセフから受け取ることになります。そして私たちは自分の罪の赦しを誰からいただくのでしょうか?その罪の赦しを与えることができる唯一のお方こそ主イエス・キリストです。

このお方が私たちの罪を代わりに背負い、私たちの咎のために砕かれ、私たちの病と傷のために打たれたからです。このお方だけが完全なる罪の赦しを与え、宣言することができるのです。

罪を持ったままでは恐れと不安に苛まれます。それゆえ私たちはこのお方の御前に出て、私たちの罪を差し出し、代わりにこのお方の血潮の注ぎを受け、その血による赦しと癒しを受け取らなければなりません。それが悔い改めです。その時、初めて罪から来る恐れと不安から解放され、平安が注がれ、神の御前に大胆に出ていくことができるようになるのです。

主は今も赦しと癒しを与えたいとあなたが御前に来ることを待っておられるのです。

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