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選びという恵み

[エペソ人への手紙 1:3,4,5,6]

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

今日の聖書箇所
エペソ1:1〜14

今日はエペソ書から恵みをいただいていきたいと思います。

エペソ書は使徒パウロによる獄中書簡の一つです。パウロの晩年、その信仰と思想が最も成熟していった中で書かれたもので霊的にとても深い真理を教えています。

エペソの町は偶像崇拝に満ちていたため、エペソの聖徒たちの中にもその影響を受けてしまう者たちがいたようです。それゆえにパウロはイエス・キリストだけが唯一の救い主であり、そのキリストの恵み以外には救いの道はないことを強調します。そしてその恵みにふさわしい生き方をするように戒めます。そしてキリストによって初めて実現したユダヤ人と異邦人の一致を失うことなく、ますますその一致を深めていくようにと教えます。

クリスチャンはこうあるべき、教会はこうあるべきと言われてもそれができるわけではありません。それがどんなに正しものであると分かっても、またそれがどんなに必要なものであると知っていてもそれができるわけではないのです。

しかし私たちは自分に与えられた恵みの深さを知れば知るほど、恵みの価値を知れば知るほど、恵みの力を知れば知るほど、その恵みが私たちを造り変えていくようになります。

それゆえパウロはまず救われた恵みの深さを教えるのです。

私たちがイエス・キリストを信じて救われたということ、これは決して自分で成し遂げることができたことでもなく、誰か伝道してくれた人のおかげでそうなったということでもないのです。

それは実は天地が造られる前からあらかじめ定められていた父なる神のご計画によることであり、その父なる神の選びによることだと言うのです。そしてそれこそが恵みの中の恵みであると言うことです。

同じように福音を聞いてもある人は信じますし、ある人は信じません。同じように教会に集っていたのにある人は躓いて教会に来なくなりますし、ある人は躓きを乗り越えて教会につながり続けます。同じようにメッセージを聞いてもある人は真理を深く悟りますし、ある人はどれだけ聞いても何も悟ることができません。

私たちはそんな時にどうして信じないの?どうして分からないの?とますます教えたり、説明したり、説得しようとしたりします。もちろんそれが必要な時も多くあります。

しかしどんなに知恵と力を尽くして説明したり、説得したりしてもそれで変わることではないと言うことです。救いはただ神の一方的な恵みによることであり、人はその恵みがなければ決して信仰を持つことはできないのです。

あなたが今、イエス・キリストを信じて罪からの救いを受け取っているならそれがあなたが神に選ばれた者である証拠であると言うことです。天地の創造主が天地が造られる前からあなたをキリストにあって選び、あなたが生まれるはるか前からあなたを救うことを決められ、予定されていたゆえにそうなったのです。

そのためにあなたの人生にあらゆることが起こり、ある時、あなたはキリストを求めるようになり、キリストを信じるようになったのです。信じるきっかけになったあの出来事も、あの人との出会いも、あの集会も全てはあなたが生まれる前から、いや天地が造られる前から父なる神によって計画されていたことだったのです。

どうしてそれがあなたで、あなたの隣の人ではなかったのでしょうか?それが恵みなのです。あなたが何か優れたところがあったからでもなく、あなたが何か良いことをしたからでもないのです。選ばれる何かの人間的な理由や価値があったからでもないのです。ただ神は一方的な恵みによってあなたを選んで、あなたをご自分の子にしようと定められていたのでそうなったのです。そのために神はご自身のひとり子イエス・キリストを十字架で血を流して死なせてまでしてその救いのご計画を実現されたのです。

恐れを感じないでしょうか?あり得ないことではないでしょうか?本当にどう考えても信じられないことではないでしょうか?しかし使徒パウロは聖書はそう言っているのです。そのような恵みを知る時に、イエス・キリストを信じて救われたこと、その一つだけで永遠に感謝と賛美を捧げることができるのであり、そうするのが当然なのです。

そしてそのようなあり得ない恵みを受けたことを知るならその恵みに応答して生きるのが当然であり、そうしないではいられなくなっていくのです。それが信仰の良心というものであり、もしそれがないならその人はまだ神の恵みを何も知らないということなのです。

今日の祈り
主よ、あなたのはかり知れない恵みの深さを日々理解し悟れるように知恵と啓示の御霊を与えてください。

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