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偽りを選んでしまった責任

[マタイの福音書 27:24,25,26]

ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。

今日の聖書箇所
マタイ27:15〜26

今日もマタイの福音書から恵みをいただいていきたいと思います。

有名なピラトの裁判の場面です。

ユダヤの総督であったピラトはイエス様を訴えたユダヤ人宗教家たちの偽りに気づいていました。彼らが妬みのゆえにイエス様を引き渡し、イエス様が無罪であることを知っていたのです。

権謀術数に長けた政治家なので宗教家たちの陰謀を見分けることができたのでしょう。

そしてピラトはイエス様を何とか釈放しようと死刑を要求する群衆を自分なりに説得しようともしました。

しかし宗教家たちに扇動された群衆はピラトがイエス様を釈放しようとすればするほどイエス様を十字架につけるように要求し、もしそれを拒んでイエス様を釈放するなら暴動になりそうな状況になったのです。

暴動になるならピラトにとって自分の統治に傷がつき、その後の出世に影響します。自分の権力と名誉か、無実のイエス様を助けるかを天秤にかけ、ピラトは自分の権力と名誉を選んだのです。

ピラトにも良心の呵責はあったのでしょう。イエス様を十字架で殺すことについて自分には罪はない、自分は群衆の言うことを聞いただけだと言い訳をしたのです。

しかしそのような言い訳は神の御前には通用することはありませんでした。ピラトの不正な裁判は二千年後の今日に至るまで覚えられ、使徒信条の中で「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と世界中の教会で毎週のように宣言されているのです。

イエス様と言う真理そのものの御方を前にして、真理を捨て偽りを選んでしまったピラトは永遠に消えることのない恥を受けることになりました。

真理を知ると言うことはある意味でとても恐ろしいことです。真理を知る時、それを選ぶか、選ばないかと言う選択が生じるからです。そしてその選択には永遠に至る責任が伴うことになるからです。

私たちにもまたピラトのような弱さがあります。真理よりも人を恐れることがあり、真理に従うよりも人を喜ばせたいと言う弱さがあります。その目的は自分を守るためです。

人は弱いから仕方がない、自分一人で正しいことをしたところでどうにもならない、自分はあの人の言うことに従っただけだ、悪いのはそんなことを言ったあの人だ・・・そんな言い訳は次から次へと出てくるのです。

しかしどんなにそんな言い訳で自分を騙しても、私たちの霊はそれが嘘であることを知っているのではないでしょうか?またそれによって真理を隠したり、捻じ曲げたりすることもできないのです。

時が経つと必ず真理は真理として明らかになり、偽りは偽りとして明らかになるのです。そして真理に従った者と偽りに従った者とは明確に区別されていくことになります。

時が経ち、イエス様と宗教家たち、イエス様と群衆、イエス様とピラトのどちらが真理であったかは明確になり、偽りに従った者たちの結末も私たちは知ることができます。ピラトという名前は永遠に呪われた名前となってしまい、イエス様の血が降りかかってもいいと言ったエルサレムの群衆たち、イエス様を十字架に追いやって宗教家たちにはやがてローマによるエルサレムと神殿の徹底的な破壊が降りかかってきたのです。

私たちの肉は一時の目先の利益や自己保身のために偽りを選ぼうとします。しかしそれは後の日にどれほど大きな苦しみを刈り取ることになるでしょう。真理を選ぶか、偽りを選ぶかには厳粛な責任が伴うのです。

それゆえ私たちは真理を選び取ることができるように切に祈らなければなりません。自分の肉が喜ぶことを選ぶのではなく、自分の霊が喜ぶことを選べるように祈らなければなりません。

私たちの霊が強くなって始めて私たちは自分の霊が喜ぶことを選ぶことができるようになるからです。

またピラトはこの世の人であり、この世の流れにどっぷりと浸かっていた者でした。そんなピラトが真理を知ったとしてもそれをすぐに選ぶことができなかったのは当然かもしれません。

真理を選び取るためにはこの世から離れ、真理に触れ、真理の中で生活し、真理に慣れていることが必要なのです。この世に慣れ、肉に慣れ、悪魔に慣れているならそれに従うしななくなり、私たちが真理に慣れ、御言葉に慣れ、聖霊に慣れているなら真理の御言葉、真理の御霊に従うことができるようになって行くのです。

真理を選ぶか、偽りを選ぶか、それには永遠に及ぶ責任が伴うことを心に刻み、真理を選ぶ恵みを祈り求める受難週としていきたいと思います。

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