見出し画像

良心をきよめ新しい自我像を与えるキリストの血

[へブル人への手紙 9:11,12,13,14]

しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。

今日の聖書箇所
ヘブル9:11〜22

今日もヘブル書から恵みをいただいていきたいと思います。

ヘブル書の著者は旧約時代の幕屋の構造と礼拝について語り,それでは罪の完全な贖いは成し遂げられないことを教えました。それらは全てやがて来る永遠の大祭司イエス・キリストによる完全なる贖いの影であり,予告でした。

そして遂に永遠の大祭司であるイエス・キリストが来られ,天の聖所に入り,ご自分の血で完全な贖いを成し遂げられたことを宣言するのです。

動物の血をどれだけ捧げても良心の汚れはきよめられることはありませんでした。それによっては赦しの確信や救いの確信は与えられず,律法によるいけにえによってはかえって罪の意識が生じるのです。

[ローマ人への手紙 3:20]

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

律法と初めの契約における聖所での動物の血のいけにえは罪を明らかにしてその赦しが必要であることを教えることに目的があったということです。完全な贖いを成し遂げてくださるメシアが必要であることを教え,そのメシアを待ち望むようにさせることにその目的があったということです。

旧約時代の動物の血はからだをきよめるものであったのです。つまり表面的で形式的な効果しかなかったのです。それに対して永遠の大祭司であるイエス・キリストの血は私たちの良心をきよめるものであるということです。つまり内面的で本質的な効果があるということです。それは罪の赦しの確信,罪の刑罰から救われた確信,罪の奴隷から義の奴隷,肉の欲の奴隷から神の奴隷,無価値感と虚しさに苦しむ罪人から愛されて使命をゆだねられた神の子へのアイデンティティの完全な変化をもたらす力があるということです。

多くのクリスチャンがイエス様を信じてもあまり変化を体験できず,同じような罪を犯してしまうことに失望し,自分は赦された罪人だから仕方がない,そんな思いの中で葛藤し,悩んでいます。

相変わらず罪人意識を持ち,良心は罪責感や恐れによって汚れたままなのです。永遠の大祭司なるイエス・キリストが成し遂げてくださった完全な贖いとはそのようなものなのでしょうか?

ヘブル書を読むなら,また聖書を読むならそうではないはずです。永遠の大祭司なるイエス・キリストの血の注ぎかけを受けるなら,そのような汚れた良心はきよめられ,死んだ行いから解放されるとあるからです。

それはもうそんな死んだ行いをしたいとは思わなくなるということであり,神を愛する心が与えられ,神に喜ばれることを願う心が与えられるということです。愛されている神の子は神を愛することが当然であり,自然なことであり,それが喜びとなるからです。

どうしてそうなっていかず,良心が汚れたままで罪責感や恐れに悩み続けるのでしょうか?そこにはやはりキリストの血の力を体験できていないことがあるのではないかと思います。キリストの十字架の血による贖いを信じきることができず,それゆえに罪を認めて悔い改めることもできず,それゆえに良心はきよめられることもなく,赦しの確信も救いの確信も全てがあいまいで不明確なまま終わっているからではないかと思います。

私たちはキリストの血による永遠の贖いを自分のものとして受け取らなければなりません。そのためにはやはりその血の注ぎかけを受けなければなりません。モーセの時代も契約が成立したしるしとして動物の血が注ぎかけられたのです。

[へブル人への手紙 9:19,20]

モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ、「これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である」と言いました。

聖書では「血」はいのちを意味します。キリストの血とはキリストのいのちと同じであり,いのちを与えるのは御霊なのです。

[ヨハネの福音書 6:63]

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。

御言葉によって罪を明確に悟らせていただき,キリストの十字架の前でそれを日毎に悔い改めることを通してその贖いの血を注いでいただき,血によってきよめられた心を聖霊によって満たしていただくこと,このプロセスを繰り返していく中で私たちの良心は常にきよめられ,愛されている神の子意識は不動のものとなり,あらゆる死んだ行いからますます解放されていく自由を味わうようになっていくのではないかと思います。

私たちがそうならないように悪魔はあらゆる手段を使ってキリストの贖いの血,十字架の血の力を信じさせないように,それにより頼まないように,それを呼び求めないようにと私たちを惑わしてくるのです。悔い改めることがないように私たちの心を神の御言葉に対して固くさせ,頑なにさせてくるのです。

永遠の贖いを成し遂げてくださった大祭司イエス・キリストの血の力を聖霊によって知り,その血の力を単純に信じてより頼み,その贖いの恵みを存分に味わう者となりたいと思います。

今日の祈り
主よ,あなたの十字架の血の力を悟る恵みを与えてください。十字架の血の注ぎかけを受けて全き赦しときよめをいただくことができるようにしてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?