教えてくれたのはラジオだった-尾崎豊を偲んで-

きょう4月25日は、尾崎豊の命日だ。30年前の1992年4月25日朝、東京都内の民家の敷地に倒れているのが発見され、病院で死亡が確認された。

この報せをぼくが聞いたのは、ラジオの夕方のニュースだった。いまも「ネットワークトゥデイ」というタイトルで放送されている、TBSラジオの全国ネットのニュース番組。ぼくは中学生の頃から、夕方になると広島カープの実況中継を聴くために地元・RCCラジオにチューニングを合わせるのが毎日の習慣になっていた。

男性アナウンサーの低い声で、彼の死は伝えられた。心拍数が急激に上がり、頭に血が上ったのを今でも鮮明に記憶している。翌日から連日のように朝のワイドショーは、こぞって彼が倒れていた場所からリポートしたり、大勢のファンが詰めかけた葬儀の模様をVTRで流したりしていた。ぼくは抜け殻のように、虚な目でその画面を見つめていた。

その年の春、ぼくは受験した大学全て落ちた。お金に余裕がないわが家。親からは「国公立しかダメだ」と言われ、前期日程、後期日程、さらに一部の公立大学が実施していた「C日程」という、敗者復活戦みたいな入試まで受けたのに。高校で仲良くしていた友人はみんな大学に受かって、それぞれ地元を出て一人暮らしを始め、学生生活を謳歌していた(ようにぼくの目には映った)。ぼくだけが、自宅から自転車で通える地元の予備校に通い始めていた。

おまけにほぼ時期を同じくして、母親が病を患って入院した。入院先は電車でも車でも1時間くらいかかる岡山県内の療養所で、お見舞いには滅多に行けなかった。ぼくと、高校に進学した弟の2人の面倒は、自宅近くに住む祖母が見ることになった。

そんなこんなでやさぐれていたぼく。その精神状態にさらに重しを載せてきた、尾崎の死だった。


尾崎の歌に出逢ったのは、中学3年生のころ聴いていた「オールナイトニッポン」だった。パーソナリティを務めていた劇作家・演出家の鴻上尚史さんが、ことあるごとにかけていたアーティストは、ブルーハーツか尾崎だった。おかげでぼくもすっかり両者の曲に魅了され、小遣いをCDレンタル代とカセットテープ代に費消して、テープが擦り切れるまで繰り返し繰り返し聴いていた。

尾崎はぼくたち10代の代弁者だった。彼がメロディに乗せて伝えるメッセージはいちいち頷くことばかりだった。
もちろんぼく自身は、盗んだバイクで走ったことも、夜の校舎窓ガラス壊してまわったこともないし、そうしたいと思ったこともない。仄かな恋心を抱いたり、単にカラダに興味を持った人はいたけれど、心から愛する相手もまだいなかった。

それでも、大人社会に対する鬱屈としたもの、思い通りにならないもやもや、愛おしいもの(者・物)へのストレートな気持ちって言葉で表すとこういうことなんだよ、という、決して学校では教えてくれないことを教えてくれていて、それになんとなくではあったけどぼくなりに理解できる部分があったんだろうと思う。


田舎暮らしの若造には、コンサートに行くような時間もお金もなかったので、尾崎の歌を直接聴く機会はなかった。ただ、フジテレビの音楽番組『夜のヒットスタジオ』で歌う姿を見たことがある。このnoteを書くために、いまネットで検索して知った事実。彼がテレビで歌ったのは後にも先にもこの『夜ヒット』一度きりだったという。そのたった一度の機会を、ぼくは見逃していなかった。歌ったのは「太陽の破片」、彼が覚醒剤事件から復帰して作った曲で歌詞は当時の彼の心情をかなりストレートに表現している。

「太陽の破片」もまた、オールナイトニッポンで鴻上さんが紹介してオンエアされたことがある。6分58秒という、ラジオでかけるには長すぎる曲だけど、たしかフルコーラスで聴かせてくれた。もちろんぼくは、中毒性のある薬物に手を染めたことはないけれど、この曲もなんとなく、ぼくら若者が抱えるうまく表現できない心の内を言語化してくれたものだと思う。


尾崎が亡くなったときの年齢は26歳。生きていれば56歳。まだまだ歌い続けていただろう。きっと今のぼくなら、コンサートにも行けただろうし、ラジオ番組の制作者という仕事柄、直接話をすることもできていたかもしれない。尾崎はどんな曲を聴かせてくれただろう?ぼくはどんな気持ちを彼に伝えただろう。

今夜はそんなことを考えながら、彼が残した曲を聴いて眠りに就こうと思う。

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