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辛かったこと パート2

今日は、精神疾患発病当時のことをお話しようと思います。

時は昭和から平成へと代わった1989年一月。
私はある産院で次女を産みました。お産自体は予定日よりも一週間遅れて、陣痛促進剤を打って、破水してのことだったから、時間はかからなかったです。

ただ、産院で同室になった人たちが、ことごとく可哀そうな人たちで、私は出産を喜べる状況にはなかったのです。
二人部屋で、最初の相室の方は、妊娠五か月で赤ちゃんが育たずに、取り出すという方。その産院では、お産以外は分娩室が使えずに、部屋で処置をするという。ピリピリとした緊張感の中、部屋のつけっぱなしのテレビからは連日、幼女連続誘拐殺人事件のことが報道されていました。まだ、犯人が捕まっていない状態で、私は置いてきた長女のことが心配で仕方なかったのです。
当時、実家にはその前年に次女と同学年になる、姉が出産した赤ちゃんの甥と私の産後の手伝いに来ていた姉が帰省していました。姉の出産の時には、私が身重で駆け付けていました。その時には何の問題も起きなかったのですが、姉が私のお産で駆け付けた時に、もともと喧嘩ばかりの姉と母の仲がこじれにこじれて、毎日大喧嘩。母はパート勤めをしていて、私たちの世話をする気ゼロ。もともと家事全般が苦手な母に代わり、子供の頃から姉と分担して家事をしてきたのです。赤ちゃんの世話なんて到底無理。一人目の出産のときは、産後もすぐに動いて、家事と新生児の世話ができましたが、二人目となると、お産時の入院時にはどうしても上の子を見てくれる人が必要です。
そんな中後ろ髪ひかれる思いで、長女を実家において、二人目のお産のために産院へ。6人部屋が満室で、個室も空いていなかったので、二人部屋に。
相室になった人はまあ、私でもそうすると思いますが、幸せな妊婦まみれの中に、自分だけが不幸のどん底にいるような、何を言ってもやっても許されるみたいな横柄な意地悪な人でした。どうにかその人が赤ちゃんを取り出す、という時に、個室が空き、その人は個室へと移っていきました。
ホッとしたのもつかの間、次に相部屋になった人は、妊娠八か月で出産したはいいものの、赤ちゃんは違う病院のICUに入院していて、産婦さんは部屋からは外出禁止の安静中の人でした。
無事に次女を出産したはいいものの、お産時に大量の出血をしていた私は産後も貧血でもうろうとしていました。そんな中、見舞いにきた母と姉は病室でも喧嘩。長女は祖母がみているとのこと。目が悪く、かびたおせんべいを平気で出す祖母に預けられているのが不安で仕方なかったです。そして、別の日にきた父は、姉と母が喧嘩ばかりして困る、早く戻ってこいと、愚痴ばかり。
私は産後も眠れない日々が続いていて、看護師さんに思い切って、上の子が心配です、と打ち明けました。看護師さんは親身になって聞いてくれました。ほっとしたのもつかの間、看護師さんは、これまた偶然なのですが、同日に出産した、珍しい私と同じ苗字の産婦さんと勘違いをしていたようです。その産婦さんの上の子は重い障害があり、また、親も頼れず、上の子を施設に預けての出産だったのです。
私は苦しい胸の内を誰にも話せずにいました。
里帰り出産していた私ですが、夫がやっと、金曜日に面会に来ました。夫が男の子を望んでいたのを知っていたので、がっかりさせてしまったなと私は内心申し訳ない気持ちになっていました。そんな夫が、退院予定の月曜日でなく、明日退院して、と言ってきました。月曜日には家に戻らなければならないからです。私は、決まりだからと申し出を断ったのですが、そのくらい言えよ、と夫がすごみ、私は次の日の朝に、もう、ここから出して!と叫んでいました。
姉と夫が駆け付けて、私は実家に戻りました。産院から精神科への紹介状とともに。

以上が私の精神疾患発病記です。
病気になって、病状かはたまた異能力に目覚めたか、不思議なことが次から次に起きました。
それでも、基本、私は狂っているかもしれないけれど、間違ってはいない、という揺るがない確信があります。
三女出産時にはマイホームのあった土地で産み、産後は姑が来てくれました。姑は悪い人ではなかったのですが、日本で信者の多い、ある新興宗教の熱心な信者だったので、クリスチャンの私とは折り合いが悪かったです。別にその新興宗教でも、救ってくれるのならばすがりたい気持ちがなかったわけではないのですが、夫がその宗教団体を毛嫌いしていて、その宗教を信仰するならば、離婚すると言っていたので、入りませんでした。

お目汚しごめんなさい。