公正であること

SNSの普及により、私たちは、じんわりと悪事はバレるということについての期待が持てるようになった。特に、権力を持っている人の不正については、世間の目は厳しくなってきているといえる。

これはいいことだと思う。目が強いものに向いてるうちは。弱いもの、異質なものに向きだすと自警団のような様相を示してくるが。

私たちはもはや、隠し事はバレるということを肝に銘じて行動すべき時に来ている。誤解されがちな行動は避けて、日の当たる道を誰もが歩いていくようになったら、つまらないけれど、健全な未来がやってくる。

そうなると情弱であることは致命傷である。例えば最近になってよく目にするのは望まぬ妊娠をした女性が生まれたばかりのえい児を殺めて破棄するという事件。赤ちゃんを辿れば母親、ないし父親は特定できる。そういう基本的なことも知らないのか、バレないと思うのか、本当に浅はかな事件である。子供のかくれんぼのように、頭隠して尻隠さずである。

SNSで匿名に慣れた人が、存在すらも消せると思い込んでしまっているのかと思う。生身の人間の気配はそうそう消えないものである。

でも、一方で、過ちを犯さない人間なんていないのだから、許しあう大切さも学んでいかなくてはいけない。そうしないと行動することが怖くなってしまう。

ルールを守っていれば誰かが守ってくれる、日本の村社会は今も機能しているのだろうか。もはや、自分を守れるのは自分だけ、という都会のルールにどっぽりと浸かっているのでわからないが、その村社会の拡大版にはsnsはなれない。腹減った、と打ち込めばご飯が出てくるわけではない。


私たちはどこへ行こうとしているのか。

パラダイスではなさそうである。