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桜 さくら にまつわるエトセトラ

タイトル

写真は、つい最近の、家の近所の桜並木。
桜が散り始め、通路に花びらの絨毯が敷かれている。
綺麗。

日本人が大好きな桜。
桜にまつわる思い出話しは、多くの人が持っていそう。
ご多分に洩れず私にも、いくつか思い出がある。

母も桜が好きだった。
再び一緒に暮らし始めた、翌年の春だっただろうか。
桜が見たいと母が言い出した。
私は気乗りしなかった。
休日の時間は、自分のために使いたかったからだ。
母が元気な頃、私は母の事をたいして気に留めてもいなかった。
むしろ冷たかったかも知れない。
知らない土地に来て、寂しい思いをしていただろうとは、その時分は考えもしなかったのだ。
しつこく言い募る母に根負けする形で、近くの河川の土手沿いの桜並木を見に、2人で出かけた。
不承不承である。
ベンチに座って桜を見上げ、微笑む母の横で、桜を愛でる余裕もない私は、ため息をついていた。
買い物、映画鑑賞、友人とランチ。
たった一回、そんな息抜きを逃したくらいで不機嫌になるなんて、つくづく狭量な娘だった。

その後、母はあまり桜見物の話をしなくなった。
新しい環境にも慣れてきて、1人で動けるようになったせいもあるかも知れない。
眼科に行くバスの中から桜並木が見えたと、よく嬉しそうに話してくれた。
本当は、私と花見に行きたかったのかも知れないが、私がいい顔をしないので、諦めていたのかもしれない。
デイサービスに通うようになると、そこから花見に連れて行ってもらえた。

桜を見て、とても喜ばれていました。

連絡帳に書かれているその一文を見て、心が痛んだ。
それまでの10年以上の年月の中で、母と出かけた花見は、たった1回だけだったことに、改めて思い至った。狭量な上に不肖の娘である。

猫たちがいる公園は、桜の名所である。
春になると植木市も開催され、桜が咲く頃はたくさんの花見客が訪れて、普段は静かな公園が活気づく。
猫たちは、あちこちに身を潜めて、喧騒が収まるのをじっと待っている。
毎年のことで、慣れたものである。
ある年、桜は満開、暖かい日で、公園は花見客で賑わっていた。
たくさんの人が、めいめいの場所でお弁当を広げ、食べたり飲んだり歌ったり。
こんな人出では、さすがに今日はいつもの子たちに会えないかな、と思いながら通路を歩いていた。
通路は、植え込みなどがある緑地部分より、1.5メートルほど低いところにあるので、ちょうど私の視線の高さくらいに、花見客が植え込みの中にシートを敷いて、食事をしているのが見える。
いつも、キジ猫、ぽーちゃんがいる辺りに目をやった。
にゃー。
小さな鳴き声がして、ぽーちゃんがツツジの茂みの中からひょっこり現れ、私のいる通路に飛び降りてきた。
やになっちゃう、とでも言いたそうなぽーちゃんの顔。
大騒ぎの花見客を、茂みの中から、うんざりした顔で見ている猫たちを想像して笑った。
花見客も、すぐ横の茂みの中に実はひっそり猫が隠れているなんて、気づきもしないだろう。
茂みの中で、猫が密かに人間ウォッチしている図は、ちょっとシュールである。
何故にこのように人間どもは浮かれているのか、猫たちには、さっぱりわからない話であろう。

ぽーちゃん
ご機嫌ななめ



最後に母と桜を見に行ったのは、母が亡くなるちょうど一年前である。
老人ホームから、ケアマネと2人で母を公園に連れて行った。
風が少し強くて肌寒い日だったが、ケアマネが母の車椅子を押してくれ、桜の木の下で写真を撮った。
施設に入ってから、母はほとんど外出していない。何故か外にでることを嫌がっていた。
桜を見上げて、母は微笑んだ。
美しいねー。
いつも花を愛でる時の、母の言葉だ。
また来年も見に来ようねと言い、公園を後にした。
結局、それが最後のお花見になった。

毎年、桜は咲いてくれる。
ああ、また一年過ぎたのだな、そんな感慨とともに桜はあるのかも知れない。
20年前の桜、一昨年の桜、今年の桜。
桜は無心に、律儀に咲いてくれる。
変わるのはただ、人の心持ちばかりなのかもしれない。

来年、私はどのような思いで、
どこの桜の木を、見上げることになるのだろうか。


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