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介護生活 後半戦part1

母のトイレでの転倒が、介護生活後半の始まりになった。
勿論、後々に思えば、の話である。

トイレでの転倒以来、母も私もやはり神経質にならざるを得なかった。
トイレはポータブル、室内の移動は杖と手すり。
1人の時間を極力無くすため、デイサービスの利用と、それ以外の時間は私が気をつけるしかない。
たちまち、時間に追われる生活になっていった。
古い家は水回りが不便で、何かと手間がかかる。湿気が多く、色んなところにカビが浮き出てくる。カビは肺炎などの病気を引き起こす可能性もある。
掃除の手は抜けない。
外食はもとより、出来合いのおかずも母は好まないので、簡単な物でも手作りしなければならない。
料理の手も抜けない。

私の仕事は、1日勤務の日は、通常17時半までである。家に着くのは18時前くらいになる。
デイサービスの送りは、16時頃。なるべく遅く送ってもらい、ソファに座らせてもらうよう頼んではいたが、やはり気掛かりで、早めに帰宅させてもらっていた。
いわゆる非正規労働者なので、働いた時間分しかお給料は貰えない。当然、収入は減った。母の年金も少ない。
デイサービスの利用料の負担もあり、時間の余裕とともに、経済的な余裕も無くなった。

仕事が休みの日は、母も家にいる。
遊びにも行けず、殆ど家事に時間を費やした。
母に関する介助等は、まだそれほどの時間は要しなかったが、万が一を考えてしまうと、途端に身動きが取れなくなってしまう。
近くのスーパーでの買い物くらいの時間なら、母にそう告げて出かければ、母もソファで居眠りでもして待っていてくれるが、長時間留守にするのは、心許なかった。
もともと遊び歩く方ではないが、映画の一本さえ見に行くことも出来なかった。
姉は遠方に住んでいる。
もし、近くにいたなら
「ちょっとお願い」
と言って、息抜きに出かけられただろうと、姉を恨めしく思ったりした。

全部を、自分1人でこなさなければならなかったこと。
時間に追われる1番の理由は、そこだった。

母が寝るのは10時半頃。何ごともゆっくりとしか動けないので、意外に遅くなる。
それ以降のたった1時間半くらいが、私の時間だった。
お酒を少し飲み、読書や音楽を聴いたり、DVDを観るくらいのものだった。
そのうち、毎日お酒を飲みながら、泣いてしまうようになってしまった。
使いすぎで、右手の親指の腱鞘炎が治りきれずに、いわゆるばね指になって、その痛みも関係していたのかもしれない。
心が疲れて、軋んでいた。
毎日泣いていた。静かに泣いていた。隣の部屋の母に気取られないように。
母や何かへの感情ではなく、ただひたすら自分の不甲斐なさを責めていた。
現状、非正規雇用に甘んじるしかないのは、ひとえに自分のせいである。
もう少し経済的な余裕があれば、もっと母にも楽をさせてあげられるのに。母は、不平らしいことはあまり言わなかったが、毎日デイサービスに行くのも、疲れることだろう。
忸怩たる思いが、私を支配していた。

そんな私を、ケアマネは随分心配してくれたし、かかりつけ医の女医(私とは25年以上の付き合い)も何かと気にかけてくれた。
高校時代の恩師、友人たち、色んな人たちが、親切にしてくれたし、優しくしてくれた。
ありがたく思った。
自分で思っているほど、私は孤独ではないのかも知れない、と思えるようになった。
病院で、右手の親指の付け根辺りに注射をしてもらって、やっと痛みから解放され、それをきっかけに気持ちは少しずつ楽にはなっていった。
厳しい生活には変わりなかったが。

きゅうきゅうとした毎日を、どうにかこうにかやり過ごし、何とか1日をクリアしていく、そんな感じだった。

一年ほどが過ぎた。

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