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タイBL小説「The Miracle of Teddy Bear」の恋愛観が好き

最近になってようやく自認したのだが、多分、私はアセクシュアルだと思う。

アロマンティックかどうかはまだ分からない。でも、恋愛的感情というものが何なのか分からないので、その可能性はあるように思う。

普通になりたい。普通になれない。不十分で欠けている自分が嫌だ。消えてしまえたらどんなにいいか。メンタルの調子がいい時もあれば悪い時もあるが、概ねそんな風に延々と自己を苛んで生きてきた。しかしこの本を読んで、理性を取り戻した感がある。

多少読みづらい日本語であったし、著者の溢れんばかりの自己肯定は眩しくもあり、疎ましくもある。また時折差し挟まれる“理解のない人”に向けた攻撃的なまでの皮肉や反論には居心地の悪さを覚えないではいられない(なぜって、私自身が私に対して“理解のない人”として生きてきたから、アセクシュアルである自分が肯定されていると感じると同時に、“理解のない”私はひどく責め立てられているように感じるのだ)。

しかしながら、ひどく理性的にアセクシュアルというものを理解することはできた。アセクシュアルの性質を持った人は100人に1人いるらしい。想像よりもかなり多い。またこの性質は、あるべきものが足りないのではなく、性的指向の一種と捉えるべきらしい。そして性愛が伴わなかったとしても、共に生きるパートナーを望むことは、分不相応なことではないという。

それなら私は普通なのねと感情的に納得してしまえればいいのだが、実際はそんなに簡単ではない。けれども感情を拗らせたり落ち込んだりした時に、自分に言い聞かせる言葉を手に入れたような気がしている。

そんな私はつい最近、ある小説の中で理想の親密さを見つけてしまった。その小説というのは、タイBL小説「The Miracle of Teddy Bear」である。

ただのファンタジーBLと侮るなかれ。ほんわかとした雰囲気や柔らかな語り口が特徴の物語だが、真に描かれているのは、特権を持った誰かが決める“正しさ”の中で、その存在を認められずにもがき苦しむ人々の姿だ。

...と書いてしまうと、とかく存在が見えなくなってしまいがちらしいアセクシュアルとしての共感であるように読めるかもしれないが、私にそうした意図はない。

むしろ、自分には理解できないものだと断じて遠巻きにしていた恋愛に関する一つの記述に、ひどく心を惹きつけられた。ここに描かれた親密さが、あまりにも私の理想であったのだ。

ふたりはずっと話し続けていた。そのテーマは“もしうっかりアリを踏んでしまったら罪になるのか”というものから、“あの事件で共産主義者を意図的に殺害したことは、本当に正しくて、功徳とみなされるものだったのか”というものにまでわたった。その幅広い知識と頭の回転のせいで、ターン先輩が、ヌン先輩よりはるかにかっこよく見えるようになった。

「The Miracle of Teddy Bear」下巻・78ページ

なんとわかりみが深いことだろう。私が欲しいのはまさにこれだ。どうでもいいような小さな疑問から、とても大事で大きな問題まで同じトーンで話ができて、対話自体を楽しめるパートナー。理想的すぎる。そして対話を通じて相手の知性に惹かれていくことを初恋の描写に組み込んでいるPrapt先生の恋愛観も、すごくいいなと思っている。

「The Miracle of Teddy Bear」はBLなので、当然ながら性描写がそれなりにある。しかしこの物語で描かれる親密さや愛情の表現は、必ずしも性的欲求を伴わなければいけないものではないように感じられた。それは数多くの作品において、恋愛にすべてを捧げるかの如く行動する登場人物たちに置いてけぼりを喰らい、付随する性愛に首を捻り、それらが理解できないことにダメージを受けてきた私にとっては、本当に、本当にうれしいことだった。

余談だが、私はPrapt先生の小説を元にしたタイドラマ「The Eclipse」を推している。この作品に出会って1年で5周しているほど、好きで好きでたまらない。こちらは高校生のBLなので匂わせ程度にとどめているが、やはり性的な要素もある。しかし思えばこのドラマも、従来の恋愛観からはどこか逸脱しているふうに思われる。

それが原因かは定かではないが、いわゆる“覇権コンテンツ(大バズりした大人気作品)”、あるいは“キラーコンテンツ(タイドラマ人気を牽引する代表的作品)”の座を獲得することはできなかったらしい。

しかし、心に傷を抱えた2人がそれぞれに苦しみ、葛藤しながらも支え合い、相手を懸命に生かしていくさまを描いたこのドラマは、私にとってはこれ以上はないと思うほど理想的な愛情表現の象徴であり、不思議と心安らぐコンフォートゾーンでもある。

重ねて言えば「The Eclipse」は“なし崩し的に”ことに及んだりしないのがいい。アーヤンがキスをする前に“していい?”と尋ねるシーンも、“嫌だったり、大丈夫じゃないと感じるなら言ってくれ。やめられるから”と囁くシーンもひどく腑に落ちる。私が尊重してほしいと思うものが尊重されていることにひどく安心させられる。

前述のアーヤンの言葉ついて言えば、私のキーワードは“大丈夫じゃないと感じるなら”の部分だろう。嫌か嫌ではないかの二者択一ではなく、その間に存在するグレーゾーンまでもを包容してくれる度量の広さが心地よい。

このドラマに出会った当時はアセクシュアルという言葉すら知らなくて、自分がひとり変なだけなのだと思っていた。しかしこの作品に描かれる愛のかたちに惹かれ、主演の2人があまりに深い友情を結んでいることを知って、私は“ようやく出会えた”と感じたものだった。ようやく出会えた。ずっと探していた作品に。ようやく出会えた。ずっと求めていた、性愛が伴わなくとも深い愛情で結ばれることはできるのだということを証明してくれる人たちに。

我ながらずいぶん重いオタクである。正直、彼らには理想を押しつけているようで、とても申し訳なく思っている。しかし彼らが支え合い笑い合う姿、そして互いへの溢れんばかりの愛情を言葉にして、涙さえ流す姿を見ていると、この世界で最も美しい関係に思えてくるのも事実なのだ。端的に言えば、私の理想で憧れである。

「見えない性的指向 アセクシュアルのすべて」を読んで知ったのだが、アセクシュアルにも色々あるらしい。自分はその中の何に当たるのか、そもそもそのようなラベリングをすることは、私にとって役立つことなのか。自分のことを知っていく段階に、いま私はいるのだと思っている。

ひとまずは「The Miracle of Teddy Bear」や「The Eclipse」に描かれるような関係のパートナーシップに魅力を感じ、これらの作品における親密さの描写に安らぎを覚えるということを、一つの気付きとしてここに記しておきたい。

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