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嘘つく男(中編)

 翌朝は、輝かしいばかりの朝陽と共に訪れた。
 男は寝不足の目をこすりながら、いつものように玄関の郵便受けへと向かう。
 玄関の扉を開ければ、ひとつの小さな小包みが落ちている。白いレースを思わせる華奢な箱に、愛らしい赤色のリボンが巻かれている。
 溜息をひとつ。
 それを拾い上げると、新聞を取ることも忘れ、男は玄関の中に舞い戻る。たたきにも上がらず、サンダルを履いたまま、小包みを開いた。
 幾重にも折り重なる包装紙を剥ぎ取ると、最後にひとまわり小さくなった箱が現れる。サイコロを少しばかり大きくしたような、てのひら大の箱。箱は、驚くほど軽い。
 ふたを開く。
 小さな箱の中には、ほんのメモ用紙ほどの紙切れが一枚、眠っている。
『あなたは、誰?』
 静かな筆跡で書かれた言葉に、男は息を呑む。
 あなたは、誰? ――それは、昨日、男が一通の封筒の中に封じ込めた言葉ではなかったか? 塑像の手の送り主の正体を知りたくて、せめてもと男が筆を走らせた言葉だった。
 昨夜、封筒の中身は変わりなく、男の投げかけた言葉に返事はなかった。
 その代わり、封筒の表にごくごく小さな字で書かれた言葉を発見したのだった。狼少年の行方。それは、男のこれからの処遇を示しているかのように思えた。男のつく嘘がもたらす未来の病、そんなものに言葉は触れているかに思えたのだ。
 昨日、自分が放った言葉が戻ってきた。
 男には、そのように思えた。
 不思議なことに、その紙切れに書かれた文字は、男のそれによく似ていた。伝票を書くときに時折、文字のことを褒められる。字が綺麗ですね、とかその類の世迷いごと。男にはどうでもいいことだ。
 男は居間に戻ると、昨日のレースの手提げ袋を持ち出した。純白の袋の中に横たわるふたつの手と、それから一通の封筒。おそるおそるそれを出し、男は封筒を開けた。
 昨日、確かに男が書いた文字がそこには並んでいる。
『あなたは、誰?』
 その文字と、今彼が手にする紙切れとを見比べる。
 筆跡は寸分違わず、同じだった。
 ため息がもれる。
 ため息は心なしか震えている。
 贈り主の意図がわからない、と男は思う。思うと同時に、俺が知りたいのはそんなことではないのだ、とそんな言葉が胸を過ぎった。
 男は紙切れを眺める。
 そろそろ仕事の時間が迫っている。
 紙切れを箱に収め、男は箱を白い手提げの横に並べた。

 仕事はここのところ直行直帰が多い。
 身辺を嘘で塗り固めている男のこと、時折、彼はほんとうに会社など存在するのだろうかと言う思いにとらわれる。
 彼の心配もむなしく、足を向ければちゃんと会社のビルは存在する。階段を上り、社名の入った扉を開け、狭苦しい職場を見渡して初めて、男は勤め先の存在を認めるのだった。
 口うるさい上司、無能な同僚、うだつの上がらない後輩……様々な人種がそのビルの一室には詰め込まれている。
 その誰もが男のほんとうとは混じらない。当然だろう。男は己のほんとうが人々に汚されるのを極端に恐れ、故に嘘をつき続けるのだから。
 男の身の上話が二転三転するうちに、同僚らのまなざしは彼から逸れ、それっきりだ。
 男の喋々とする美々しい半生に、彼らはみなほどほどの好奇心とほどほどの嘲りとをもって耳を傾ける。
 嘘は極上のサービスだ、と男はそのたびに思う。嘘は喋る男を輝かせ、またその照り栄えで日常に膿む同僚らの心をも光らせた。男は出来得る限り、口を閉じないように注意する。
 けれどそんな愉悦の出社も今は遠い。月末も月初めもほどなく遠く、男は社に足を向ける用が特にない。時折報告や書類提出に行くぐらいだ。仕事の連絡は全て、懐の携帯電話にやってくる。

 そういうわけで、男は今日も喫茶店に足を向けた。
 朝からあの場に入り浸り、お湯臭いコーヒーを飲むのが目下、男の至上の楽しみだった。女たちの足も今は遠のいている。身辺が静かなのをいいことに、男は優雅な一日を享受する。
 喫茶店は、相も変わらず空いていた。
 しかし、今日はあのウェイトレスの姿がない。
 置物のような老翁が男の姿を見、形だけの会釈をする。男はいつもの席に身を沈め、注文を聞きに来るのを待った。
 てっきり男はあの老翁が注文を取りに来るものだと、思っていた。しかし予想は外れ、現れたのはひとりの青年だった。そばかすだらけの頬を微かに緊張に歪ませ、青年は男の注文を聞いた。
「新しいバイト?」
 男が聞けば、はいと青年は頷いた。
「今日から、手伝いに入りました」
 はにかみに細められた目元が途端に幼くなり、男はしばし青年の履歴を想像する。
 手伝いに入った、ということはあの女は職を去ったのだろうか。青年は女の穴を埋めるために、一時的に雇われているということだろうか。もしかしたら老翁の親戚かもしれない。急場をしのぐために、短い期間、雇われたのかもしれなかった。
 男の眼差しを受け、青年は首を傾げる。
 何か用か、と率直に告げる瞳に、とりあえず男は微笑した。
 長い間会っていない従兄弟に似ている、と気がつけば言葉が滑り出ていた。
 男は嘘という肉でその身を養っている。酸素より何より、嘘が必要だ。彼の舌は急速に生気を取り戻しはじめる。
 従兄弟の母が駆け落ちし、それから従兄弟の一家は離散。そのとき中学生だった従兄弟らは東京へ行き、それからこっち帰ってこない。
 兄とはそのうちにして連絡が取れたのだが、弟のほうとはどうやっても連絡がつかない。今どこにいるのか、生きているのかさえ分からない……
 語るうち、嘘は男の中で精気を得、着々とその身を膨らませてゆく。男はその膨張率に目を細めながら、次なる言葉に手を伸ばす。
 男の思わぬ告白に、青年の目に涙が浮いた。
 うっすらと刷かれた涙の何と美しいこと。己の嘘が導き出した美なるものに男は陶酔するかのように見入る。
 最近めっきり男の身中から漏れ出すことのなかった嘘の芽は、ここぞとばかり蔓を伸ばす。男はどれだけ己が飢えていたのか、初めて知った。
「……そんなことがあったんですか。大変ですね。その従兄弟の弟さんのほうに、僕が似ているんですか」
 涙の膜の向こう側から、青年の美しい瞳が男を見つめる。
 話は虚だというのに、青年の涙は本物だ。それを大いに歓びながら、男は頷いた。
「そう、だから正直僕も驚いたよ」
 男は涙を隠すかのよう青年から眼差しを外し、そう告げた。
 青年はひとしきり涙ぐんだ後、何事もなかったかのように顔を上げた。にこりと事務的な笑顔を頬に浮かべ、それから言った。
「ご注文は以上ですね」
 さらりと伝票に文字を書き込み、背を向ける。
 一度も振り返らずにそのまま調理場へと行ってしまった。
 男はあっけに取られて、その後姿を見送った。

 午後の陽は気疎い。眠気を誘う作用しかなさそうな陽光のもとあくせくと働く人々がいることを、男は驚嘆をもってして考える。
 一度トイレに立ったときに、はめ込み窓から外の様子を窺った。陽に焼ける歩道に、人々の姿がちらほらと散る。そのあくせくと蠢く、蟻のような忙しなさに男は哀れみさえ覚えたりする。

 五時を迎え、家に帰ると、玄関先に小さな包みが置いてあった。
 朝見たそれよりはいくらか大きい。両のてのひらに載せれば、包みはゆうにはみ出しそうだ。男は包みを抱え、玄関の鍵を開ける。
 包みの中身は、また塑像だった。
 今度は足がひとつ、足首から先を断ち切られた形でうずくまっている。白い肉へと手を伸ばし、己の足に並べてみると、案の定、それは瓜二つだった。男は渇いた喉に、生唾を送り込む。
 一体、これはどういうことだろうか?
 思えど、分からなかった。
 何故、贈り主は男の足を知っているのだろう。
 手ならともかく、足は日頃外界の風にさらすことがない。靴下におおわれ、さらには靴に包まれて、足は人目に触れる機会などほとんどないも同然だろう。
 心当たりがあるとすれば、やはり女たちだ。
 寝床を共にしたことのある女たちが、何らかの意趣返しとして男にこの塑像を送りつけている。そう考えることはできないだろうか?
 しかし今までの女たちにこんな小器用なことができるものはいないはずだ。男は頭を悩ませる。一体、贈り主は誰だろう?
 喫茶店の、ウェイトレスの姿がちらついた。
 どうしても頭から離れない。
 あの女ではあるまい。
 女の前で靴を脱いだことは一度たりともないのだ。理性は常に囁くものの、しかしもう男の視界を埋めるのはあの女以外になかった。
 装飾過剰な制服に身を包む女。衣装さえなければ、男たちの目にも留まらぬような地味な女。
 あの女がこれを造ったのではないだろうか?
 男のなかで、推測はより真実味を増してくる。
 注文を伝票に書き込む、あの細い指。造詣をするにはいささか華奢すぎるが、あの指ならば確かに繊細な塑像を造るにはうってつけなように思われた。
 しかしもう女は喫茶店にはいない。
 女の空白を埋めるように、新しく入った青年がいる。
 そばかすだらけの頬の、人のよさそうな青年。
 けれど胸に滴るこの違和感は何だろう? 男の話に涙して、けれどその一瞬後には全てを忘れ去ったかのように、注文を確認した青年。その態度にはある種の空恐ろしささえ感じられた。
 男は塑像の足を包みにしまう。
 目に付かぬように、居間のテーブルの下へと押し入れた。

(つづく)


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