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廃園 4(全7話)
「……彼女と寝たよ」
夢の中だけで、私は彼に本音を零す。
彼は、前夜の葬式で弔われたという彼は、何もかも清められたような晴れやかな顔で笑っている。
「……お前、あいつと寝たのか」
ひとたび夢という世界を去れば、彼の眼差しは険しい。
疲弊しきった老人のように枯れていたはずなのに、今は瞋恚の炎が暗く燃え、濁ったようにぎらついている。
居酒屋。
何度も彼と訪れたその場所で、私は今日も彼の話を聞いている。
女と駄目になりそうなこと、会社の金を使い込んでいること、それが同僚にばれそうなこと……なぜ彼はこうも私にすべて話してしまうのだろう。本当に愚かな、馬鹿な男だ。
出会った時から彼はそうだった。彼女と出会った時もそうだ。
私を全くの信頼のうちに、自分の味方だと信じ込み、だから今、こんなことになっている。
「……お前、あいつと寝たのか」
言葉は、唐突に訪れた。
先まで続いていた職場の同僚への怨嗟の言葉はどこへやら、突然に言葉は私の心臓を打ち抜いた。打ち抜かれたにもかかわらず、私は平然とグラスを傾けている。
少しばかり驚いたように目を見開き、さも心外だと言わんばかり、眉根をひそめて見せる。我ながら巧みな演技だ。
「……な、訳ないよなぁ。すまん、馬鹿なこと言った」
ふにゃりとふやける眼差しに瞋恚の炎は絶えようとしていて、私はそれが面白くなく、グラスのウイスキーをすすりながら真実を告げた。
「寝たよ」
グラスの中の氷が転がり、艶めいた音を出した。
「……は?」
「寝たよ、って言ったんだ」
「……お前、それ本当か?」
「本当だ」
自分から言い出したくせに、私が認めると怖気づく。
そういう男なのだ、この男は。
私は憐れみをもってして、彼を真っ向から見つめた。動揺に見開かれた双眸に、ひとことひとこと、注ぎ込むようにもう一度言った。
「寝たよ。俺、佐代子さんと」
夫婦の仲が冷めていることは知っていた。だからもういいじゃないか。お互いにお互いを縛ることをやめればいい。もう壊れてしまったのだと認めればいい。簡単なことだ。
そんな正論らしきものが喉元まで出かかって、けれど決して日の目を見ない。そんなこと、私は微塵も思っていないから。
「嘘だろ」
彼の虹彩が呟く。
嘘だと言ってほしいのだと思った。けれど私は言わなかった。一言も発さぬまま、ただ彼の眼を見つめた。
じわじわと広がってゆく瞳孔、そこに何の感情が花開くのか、私は知りたかった。先ほど焔のように燃え立った瞋恚でもいい、恨みでも憎しみでも、絶望でも、何でもいい。私を見つめる双眸に息づく感情であれば、何でも、いい。
「……お前、」
何かを言おうとして言葉にならず、彼は口をつぐんだ。
動揺。
何故、今更、動揺するのか。
怪訝に思い、また不満にも思う。揺さぶられた感情の中に花開くもの、それを見たいというのに彼の双眸の色は動揺に塗り込められ、
「……何で、泣いてるんだよ」
ふいに、憐れみに振れた。
「……は?」
一瞬彼の言葉の意味が分からず、私は眉をしかめる。頬を濡らすものに気づいたのはそれからだ。顎を伝って、ぱたぱたと、テーブルに落ちる。
「……何で」
テーブルを濡らした雫を呆然と眺め、私は呟いた。
また夢の続きなのか、そう思った。彼の葬式を終えた次の日の夜、あの夢の前提はいつも決まっている。夢の中で私はいつも滂沱の涙を流す。
夢が現実にまで侵食してくるとは思わなかった。それともこれも実は夢なのか。私が気づいていないというだけで、私はもう眠っているのだろうか……
「樋越」
眼前の男が私を呼ぶ。
その眼を私はもう見たくない。
目を伏せ、それから言った。
「すまん。酔った。帰る」
慌ただしく去る私を、彼は追っては来なかった。
それからどうやって家に帰ったのだろう。覚えていない。ただひたすらに歩んだ夜道に、間遠に光る街灯のわずかばかりの耀きだけ、眼の底に残った。
その日から、私は夢も見ない。
というより、夢が現実にこれ以上侵食するのを恐れたのだ。
夢はひとたび現実に零れ落ちれば、そこからみるみるうちに私の現実など食い荒らしてしまうだろう。何よりそれを恐れ、睡眠時間を削り、早朝から職場に出かけ、始終パソコンのキーボードを叩いて過ごした。
眠るのはほんの一時だけ。
仮眠室で貪る死のような眠りは冷たく深く、夢中の彼の影も訪れない。
やがて、私は疲れた。
体の芯から蕩けるような疲労は不快ながらどこか愉悦をくすぐるようなところもあり、私は朦朧とした意識で、その眠気にも似た疲労を四六時中もてあそんだ。
いつのまにか酒はやめて、煙草を始めていた。人生で初めて吸った煙草の味は苦く、決して快いものではなかったが、私はそれを常飲した。
あれから彼には会っていない。
あの無残にも枯れてしまった白薔薇にも。
折り重なる着信履歴は眼底に累々と重なる死屍のように見え始め、ついには携帯を見るのをやめてしまった。仕事用の携帯なら別にあるから不自由しない。私の個人用の携帯は、コートのポケットに図らずも墓所を定めていた。
静かなる日々。
私の人生でいまだかつてこれほどに静寂な日々があっただろうか。誰も他人の影がない、見渡せど見渡せど誰の影もなく、私、ひとり。
寒々しいような心象風景に、けれど私は満足していた。
これでもう誰にも乱されることはない。私は死ぬまで静寂の中で生きてゆくだろう。
ある日、真夜中にベルが鳴った。
不審に思いつつも、私は布団の中で蹲っている。どうせ酔っ払いか何かだろう。でなければ気違いに決まっている。深夜も一時近いこんな夜更けに、人の家のベルを鳴らすなど……そう思うのに、微かに胸が騒いだ。私はベルを押したのが誰なのか、おそらく知っている……
ひたひたと廊下を歩み、玄関の扉へとゆきつく。そっとたたきに降りて、扉越しに外の気配に耳を澄ませた。摺りガラス越しに滲む淡い人影。私は、問う。
「どなたですか」
返事はない。
当然だろう、囁くような声音が扉の外にまで聞こえるはずがない。
私は扉に手をかけて、玄関のカギを外した。
チェーンをかけたまま、そっと押し開く。
濃厚な夜気が扉の隙間から押し寄せ、一瞬で家中は夜になる。電灯に皓々と照らし出された家中の夜、文明の夜とは程遠い、それは野放図に大地をめぐる、圧倒的な野生の夜だ。その夜の中に、私は一人の男を見つける。
「……樋越」
男は言う。
つらつらと何かを言い募る唇にけれど私は魅入られて、彼の話の渦中に入っていけない。よく動く唇、久しぶりに聞く彼の声に、私は全身が鼓膜となり、心地よく揺さぶられるようだった。
「お前、こんな夜中に……」
繰り言を言おうとして、ふと、私は気が付く。
彼の蒼白な顔いろ、微かに憂うその眉間にけれど往来の皴がなかった。ここ数年深く刻まれたその皴は見るたびに凄惨さを増してゆき、彼の生きづらさを物語りつ、それでもこの世に抗ってゆくある種の闘志のようなものをまた滲ませていたのだ。その皴がない。
「……金村」
思わず友の名を呼び、私は続く言葉を失った。
玄関の外灯に照らされる彼の足元、そこにはいかなる靴もなくサンダルもなく、つまり彼は全くのはだしで立っているのだ。
顔色よりもまだ蒼白な、武骨な足……私は夢に幾度となく見た彼のはだしの足を思い出し、息を呑んだ。じわりと背に汗が浮いてくる。真冬の夜にはふさわしからぬ、脂汗……私は、
「樋越」
彼がまた私を呼ぶ。
確かに眼前の男は疲弊に疲弊を重ね、今にもこの世から零れ落ちそうな顔貌をしている。
ならばまだ彼は生きているのだろうか?
それとももう、これは夢の中なのか?
幾度も見重ねた夢は、それとも現実を呼ぶのだろうか。
「かなむ、」
私の声を遮って、
「別れたよ」
彼は一言、そう言った。
私はもうそれから先を聞きたくない。
全身で拒み、耳をふさぎ、彼のはだしの足から目をそらし……そうしたいのに、出来ない。私は無力にも立ち尽くし、ただ、彼の言葉を聞いている。
「別れたって、誰と」
「あいつに決まっているじゃないか」
そのあいつが分からないから聞いている。
私があつらえた女なのか、それとも散った白薔薇か。彼は一体誰と別れたというのか。夢の中でいくら聞いたって教えてくれたためしはない。なら、今なら?
「あいつって、誰」
私は聞いた。
彼は幾らか晴れた眼差しで微笑い、やっぱり教えてくれなかった。
「樋越、俺、お前のこと好きだったよ」
ぽつりと零された言葉に、私はとっさに反応できない。
彼は微笑を浮かべたまま、ゆっくりとはだしの踵を返した。そのまま外灯の光の届かないところへ……
私は、彼を呼んだ。
鼻腔を、ほんのかすかな血の臭いがくすぐった。
それからまた、闇。
押しかかるような原始の闇……夜が、彼の後姿を呑んだ。
(つづく)
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