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嘘つく男(後編)

 朝陽のない曇天の中に、けれど前日と寸分変わりない日が横たわっている。
 その日も特に出社の予定はない。幸いなことに懐の携帯電話も静まり返っている。男は新聞を取りに、郵便受けへと向かう。
 黒々と掻き曇る空が、雨の気配を忍ばせている。
 今日は降るかな。
 男の眼差しから逃れるように、暗雲を鳥たちが滑ってゆく。
 新聞を取るより先に、玄関先、ひとつの箱が目に付いた。
 箱はもう小さくも愛らしくもない。
 白いレース模様の包装紙だけ、お愛想のように纏わりついている。赤いリボンの姿はなかった。
 
 男は腕に余る箱を抱え、玄関の中へと戻る。
 今までのような軽さはなく、筋肉をじっとりと痺れさせてゆく重みが腕にしみてゆく。居間の床に下ろす。男は箱を見つめ、押し黙った。
 手から始まり、紙切れ、足へと変遷をたどったこの贈り物は、そろそろ終盤にたどり着くのではないだろうか。男の胸にはそんな予感がある。
 大きさからして、箱の中に眠るのは胴体だろうか。
 腕に残る重みを思い、男はわずかな疲弊を感じた。
 何故、こんなに疲れているのだろう。
 男は思う。
 嘘に飛翔し続けた日々に、疲弊はなかった。
 常に喋々とする男の口は生き生きと輝き、唇からこぼれる言葉たちは、みな空気に触れるたび翼ある鳥たちのように空を舞ったではないか。あの、血湧き肉踊るような躍動が、今はどこに消えてしまったのだろう。
 男の口は相変わらず嘘を求めて疼いている。
 聴衆はどこに姿を消してしまったのか。
 迷った末、男は箱を開けなかった。
 居間の片隅に箱を押しやり、それから億劫な腰を上げた。
 今日は雨が降るだろう。
 そんな確固たる予感と共に、男は家を後にした。
 
 喫茶店の扉を開ける。
 幸いなことに雨はまだ地上を濡らさない。せめて帰路を辿るまで降らなければいい、と男は思うのだが、しかしそれも無理な話かもしれない。ならば店にいる間に降り終わり、家路をたどる頃には暗雲が払われていることを願うしかない。いくらか憂鬱な思案に暮れながら、男は喫茶店の入り口をくぐった。
 カウンターの向こうにいつも鎮座する老翁の姿が、今日はなかった。
 静まり返る店内の空気を奮い立たせるかのよう、店の奥から青年が走り出てくる。
「あ、いらっしゃいませ」
 はにかんだような笑顔を頬に浮かべ、それから、どうぞと奥の席を指し示した。
「あの、じいさんは」
 男の言葉に、不思議そうに青年は首を傾げる。
「じいさん?」
 まるで男の言葉が分からないというふうな――その仕草に男は震えた。
 もしも、と思う。
 もしも、あのじいさんはどうしたのと聞いて、それで青年の返事がこのようなものだったらどうしようと、男は年甲斐もなく怯えたのだった。
『じいさん? 誰ですか、それ?』
 さも不思議そうに首を傾げる青年の姿を思い描くだにぞっとする。
 まさか、そんなことはありはしないだろう。そう思うのに、男はついに老翁のことを口にするのを諦めた。万が一、青年が首を傾げ、その存在を否定するのを恐れたのだった。
 緩慢な足取りで、男はいつもの席に向かう。
 外の陽の当たらぬ、この店で最も奥まった席。男をその懐に憩わせるような席を、彼は愛した。嘘で塗り固める男のよろいも、その席ではいつも気がつけば剥落するかのようだった。

 しかし、席は今日に限っては男を歓迎せぬかのようだ。
 埃っぽいテーブルの上に、無造作にコーヒーカップが置き忘れられている。よく見れば男が昨日、立ち去ったまま、席はひとつも片付けられた様子がないのだった。
「……ちょっと、君」
 青年を呼びながら、男はかすかな不安に取り巻かれている。
 今まで一度だってこんなことは起こらなかった。それが今日に限って起こることに、男は何らかの兆しを感じている。背をそくそくと這い上がり、汗に湿った男のうなじを撫ぜ、やにわに男の中に入り込んでくるもの。その正体の分からぬ不気味さに、男は身を震わせる。
「ちょっと、悪いけど来てくれないか」
 一向に姿を見せない青年に業を煮やして、もう一度、男は声を上げた。
 しかし、青年はいつまでたっても来なかった。
 眉を寄せ、男はカウンターへと向かう。青年は厨房にでも引っ込んでいるんだろう、そう思ったからだった。しかし、男の予想は外れた。
 青年は、厨房にはいなかった。
 厨房はカウンターの向こう側のわずかな空間で、別段表から見えぬ場所にあるわけではない。その狭苦しい空間はレジからのぞけば、簡単に一望できるのだ。しかし、その場に青年の姿はない。
 男は言葉を失って、その場に立ち尽くした。
 ……誰も、いない。
 そんな言葉が遅ればせながら、男の胸を震わせる。
 置物のような老翁も、装飾過剰なウェイトレスも、つい先程まで姿のあった青年でさえも、喫茶店の内腑にあたかも融け消えたかのようにいなくなってしまった。
 物音さえしない。
 人の気配は、絶えてなかった。
 男は立ち尽くしたまま、ゆっくりと思考の歯車を回す。そうでもしなければ、歯車は見る間にさびつき、ひとつひとつ朽ち落ちていってしまいそうだ。
 まず、と男は思う。
 冷静さを装った思考で、何とか正解を導き出そうと四苦八苦する。まず、に続く言葉がしかしいつまでたっても出てこなかった。
 ……まず、片付けるか。
 男の頭に浮かんだのは、何故かそんな言葉だった。
 先程のテーブルが頭にあった。昨日、男が席を立ったまま、片付けられた形跡のないテーブル。まず、あれを片付けてしまうか。ひとつの違和感もなく、男はそんなふうに思ったのだった。
 決まってしまえば、後はたやすい。男は全ての矛盾に背を向けて、ゆっくりと先のテーブルへと向かう。ゆるやかな足取りは自信に満ち、先の恐怖の気配などすっかり忘れてしまったかのようだ。鼻歌交じりに、奥へ歩んだ。
 テーブルの上は、先程のまま時を止めていた。
 男はコーヒーと、ホットサンドの載っていたと思しき皿を片手にまとめる。テーブルを拭こうと身をかがめ、そしてようやく布巾を持たぬことに気がついた。
 軽い舌打ち。
 男は布巾を求めて立ち上がる。確か、カウンターの隅にまとめて置いてあったはずだ。踵を返すと、しかしそこでバランスを崩した。
 陶器の割れる鋭い音に、ぱらぱらと微細な破片が舞い落ちる音……鼓膜をゆする不快な音色に、男は舌打ち。
 仕事がひとつ増えてしまった。
 床の上の惨事に一瞬目を向け、それから男は掃除用具入れへと向かう。
 店の通路のつきあたり。名も知らぬアイドルのポスターが貼られる壁の横に掃除用具入れはある。
 ポスターのなか微笑む少女の大きく開いた胸元を見ながら、男は掃除用具入れを開ける。扉の脇に、アンティークの小さな鏡がついている。光にかすむその鏡面に、男は自らの顔を見、一瞬言葉を失った。
 ……若い。
 そう思ったのだ。眼裏に呼び出す自画像とそれはあまりに食い違っている。首を傾げた瞬間、男は戦慄した。
 鏡面ではにかんだ微笑を浮かべるそれは、自分ではなかった。先程見たばかりの、あの青年の顔であった。
 驚いて目をしばたたくと、幻は束の間で去った。
 鏡面には、確かに長年見慣れた男の顔が映っている。
 ……俺は、一体、何をしているんだろう。
 あたかも店員であるかのよう、テーブルを片付け、布巾を探し、あげく割れたカップを自ら掃除しようとしている。まるでアルバイトの青年のように……自分で口ずさんでおきながら、男は震えざるを得なかった。
 鏡面に映るのは、確かに男の顔である。
 女たちに愛されていた頃の面影は今も残るが、しかし年月にさらされ衰えている。高く通った鼻梁も、すっと目じりへと抜ける切れ長の双眸も、かすかに肉感をくすぐる厚い唇も、若い日の残滓に過ぎなかった。
 ……青年はどこへ行ってしまったのだろう。
 男は思いながら、身をかがめる。
 モップと雑巾を掴み、用具入れの底のほうへ沈むバケツへと手を伸ばした。
 男の手が止まる。
 古びたバケツの、ひび割れた底にそれは転がっていた。
 ……塑像の足。
 白々と目を焼くそれに、男は射すくめられたように動きを止める。まじまじと見入ってから、手を伸ばした。
 それは確かに男に幾度となく贈られた白い塑像と同じもののようだ。
 ある予感をもってして、男はその場で靴を脱いだ。靴下を脱げば、窓からの薄明かりに見慣れた足が現れた。
 男は足を床に置く。
 塑像の横に並べると、それはそっくりそのまま男の足を模していた。
 これで、揃った。
 男は思う。
 白い手がふたつに、白い足がふたつ。そしておそらく男の家には、まだ開けぬ箱の中、まだ見ぬ白い胴体が眠っていることだろう。その夢想は男の胸をいやに騒がし、また同時に、ひどく安堵させもした。
 男は塑像を拾い上げる。
 やはりあの女だったのかと思う。しかしそんな思考にもはや意味がないことを、誰あろう男が一番よく知っている。
 女かもしれないし、青年かもしれないし、それは老翁かもしれない。この喫茶店に住まういずれの者かが、この像を捏ねあげ、乾かして、日夜男の家へと置きにやって来た。要はただそれだけのことではないか。
 モップも雑巾もバケツも残し、男は立ち上がる。
 家に帰らねばならない。
 通路の狭間で輝くガラス片にももう捕らわれず、男は喫茶店を後にした。
 
 外はいつの間にか雨になっている。
 傘を持たぬ男は、ビルの合間を抜けながら帰路を辿った。
 途中、ウェイトレスを見かけたような気もするが気のせいかもしれない。
 男の視界は雨に閉ざされており、眼裏に像を結ぶ前に、女は目の前を通り過ぎてしまった。過剰な衣装を脱ぎ去った女は、実にシンプルで、味気なかった。
 
 家に帰りつく。
 玄関の前には、もう何もなかった。
 男は懐の塑像をかばいながら、鍵を開ける。
 居間に向かった。
 窓からの薄明かりに濡れ、居間は静まり返っている。
 男は照明をつける。皓々と輝かんばかりになった部屋の中央に、かの塑像の足を置いた。
 静脈の浮きかた、腱の隆起が描く線、肉のつき方……それは男の足と寸分違いない。白いレースの手提げから手を二つ、箱の中からもう片方の足をひとつ、男は取り出して床に並べた。
 白い塑像は、虚であるが故に美しい。
 時から切り離されたそれは、現実の男をかたどりながら、男と切り離されたがために実に美しく芸術へと昇華されているのだった。
 男は、嘘を思う。
 自らの口を愉しませ、自在に宙を飛翔した嘘は、もう今では彼の魂を去ろうとしていた。それを失った今、男の四肢はすでに亡骸に等しかった。
 ……誰が、それを知ったのだろう?
 告発者を恨む気はまるでない。ただ、それだけが不思議だった。
 紙切れが床に落ちている。
 『あなたは、誰?』――そう書かれていたはずの文面はいつのまにか変わっている。
 『狼少年の行方』
 封筒の片隅で発見した文字は、紙片に場を移し、今や彼の視界を埋め尽くさんばかりに大きくなっていた。
 それがどう見ても自分の字に見えるので、男は心底不思議に思った。
 喫茶店で過ごした優雅な日々を眼裏に描く。アンティークのような老翁に、装飾過剰なウェイトレス、風変わりな青年……本当に彼らはいたのだろうか? ぼんやりと、男はそんなことを思う。
 部屋の片隅にある大きな箱に歩み寄り、男は腰を折る。
 白い包装紙を剥がしながら、つらつらと湧き上がる盛大な嘘の気配に今にも笑ってしまいそうだ。
 びりびりと紙は裂ける。
 やがて箱の姿が現れた。
 丹念に貼られたガムテープを剥がしながら、男は息を深める。
 たとえ窒息死したところで、男は嘘をつき続けるだろう。
 そんなことをいつか誰かが言った気がする。果たして実に正解に近い。
 ガムテープが剥がされる。
 男は箱のふたを開けた。
 小暗い闇と共にそれはあった。
 息の仕方すら忘れそうな、大きな空白だった。
 箱の中には何も入っていない。
 髪の毛一本、綿埃ひとつでさえ、入っていなかった。
 男は笑う。
 今度こそ本当に笑ってしまう。
 この中に塑像の胴体が入っているなど、何故自分は思ったのだろう。そんなことあるはずないじゃないか。
 馬鹿馬鹿しい夢想を葬り去り、さて男はひどく現実的に考えた。
 男が現実を考えることなど、普段は絶えてないことだ。しばらく思案に暮れる様子で、男は箱を見つめ続けた。
 
 どれだけの時間がたった頃だろう、ふいに男は立ち上がり、自ら箱に入った。
 男が入るにはちょうどよい大きさだ。
 最初から結末が決まっていたように思われて、男は安堵のうちに身を丸めた。
 目を瞑るとどうしようもない快い眠気が訪れ、まどろみのなかで男は口をつぐんだ。
 部屋は、静謐に満たされる。
 取り残された塑像の手足が落ちていた。
 


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