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ちゅらら(後編)

 私は目を開くのが恐ろしかった。体を小さく固めたまま、私は声だけで聞いた。
「よし?」
「そうだよ。よしだよ」
 よしの声音が、なんと鼓膜に懐かしく響くことだろう。
 よしと過ごした楽しい日々は、もはや私の中では前世の記憶ほどに遠い。込み上げる涙に、私は唇をかみしめた。
「しょうちゃん、なんで目を瞑っているの?」
 よしの言葉に私は答えるすべもない。
 正直に言えば、見たくないから。けれどそれはよしに対する裏切りの言葉であることを知っている。私はかすかに首を振った。
「自分でも分からないの? ふうん」
 よしは不思議そうな声を出し、それから声は途切れた。
 ひたひたと、足音。
 ゆっくりと近づいてくる足音に、私は怯えて身を引いた。
「……しょうちゃん。どうしたの? 怖いの」
 残念ながら、その通りだった。
 答えはしなかったが、よしは私の仕草で悟ったのだろう。……ふうと、小さく吐息をついた。おそらく、私の随分近く、目と鼻の先で。
 よしの吐息が香る。
 父の土産の舶来のお茶なんかより、よっぽど芳しい吐息だ。私は酔ったように鼻腔をひくつかせ、すぐそこにあるよしの体の温かみを感じた。
 何か、柔らかなものが頬に触れた。
 よしのてのひらと気が付くまでに数秒かかった。よしのてのひらは温かい。水仕事でささくれだった指先が、私の頬を優しく撫ぜた。
「……大丈夫? 怖かったね」
 小さな動物を愛おしむ様な手つきで、よしは私の頬を撫ぜ続けた。慈雨のように暖かな声音に私の極限まで高まった緊張はほぐれ、情けないことに背が震えた。
「大丈夫。もう、あのひと、いないよ」
 囁くように言って、よしは私の手を握った。
「こっち。来て。幸作ちゃん、探しに来たんでしょう」
 盲となって、よしの優しい手に導かれるのは何と快いことだったろう。よしの言葉通り恐ろしいものはみな立ち去り、よしの温かい掌だけが、残った。私は目を瞑ったまま、よしに導かれるままに、廊下を出、いくつかの部屋を通り過ぎた。よしの足が、止まった。
「ほら、ここ」
 目を瞑ってはいるものの、およその感覚でわかる。おそらく辿り着いたのは仏間だろう。染みついた線香の匂いと、鼻腔をくすぐる……の、臭い。
「ね、幸作ちゃん、いるでしょう。何でまだ、目、瞑っているの」
 私は瞼を固く閉じたままだ。
 あんまり固く閉じたので、瞼の内側で眼球が破裂してしまったのではないかと思う。破裂した眼球は眼窩の中で海となり、ごうごうと鳴りながら、実に巧妙に私に幻の光景を見せつけてくる。仏間。いつも閉め切られていたその部屋の片隅に、汚らしくつかねられた布団。その布団の狭間から、零れるようにして弟ははみ出している。熱帯の花のように大輪で、自堕落で、恐ろしげな花となり、弟はぐんにゃりと咲いている。いかにも花らしく鮮やかに散る赤色が幻とは言えまぶしく、私は瞑った瞼をさらにかたく引き絞った。私は目を開けていない。これは幻だ……私は、思った。それなのに、よしは言うのだ。私の傍らで、囁くように。
「可哀そうにね、幸作ちゃん。でもあれを見ちゃったから……しょうがないのかな……可哀そうにね」
 夢の中でつぶやく台詞のように、よしの言葉には現実味がない。
 私は首を振る。私は何も見ていない。だって、目を瞑ったままなのだから。
「……しょうちゃん。目、開けないの。幸作ちゃんのこと、見てあげてよ。ねぇ、しょうちゃん」
 いくらよしのお願いだからと言って、私は折れるわけにはいかなかった。
 鼻腔をくすぐり続けるあの臭いが膨らみ、怒涛の波のように押し寄せてくる。仏間の奥、私の弟が零れ咲くだろうその場所から。
「……しょうがないなぁ。じゃあ、手伝ってよ。幸作ちゃん、片づけなきゃ」
 よしの言葉に、私は違和感を覚える。
「片づける?」
 まるで玩具に対する言い様ではないか。私の違和感に気づかぬように、よしは笑いながら頷いたようだった。
「そう。幸作ちゃん、一緒に片付けよう、しょうちゃん。手伝ってくれるでしょ」
 いつもと変わらぬよしの無邪気な声音に、私はいいようのない胸やけを覚えた。ちらりと疑念が胸に沸く。本当にこれは、よしなのだろうか? 私の目は、先ほどから瞑られたままである……
「よしだよ」
 よしの声が言う。
 私は疑問を口に出していたのだろうか? よしは何故、私の考えていることが分かるのだろう? ついさっきだってそうだ。私の眼裏に顕った幻影を共に見たかのような口ぶり……これは、本当によしなのだろうか? 繋いだてのひらが、汗を帯びてじっとりと湿った。
「……しょうちゃん、駄目だよ。考えちゃ、駄目」
 すいと手を引かれ、私はよろめきながら仏間に踏み込んだ。
 よしに手を引かれるまま、奥へ。
 鼻腔に荒れ狂う血の臭いを、もうごま化すことは叶わなかった。
「……いい? そっち、持って」
 よしの手に導かれるまま、私はぐんにゃりと力ないそれに手を添えた。内側から無限に開いては蕩けてゆくような正体不明な肉の塊……私は触れたものを、そう感じた。瞼の裏の闇は深く、先とは違いもうけざやかな幻影が視界を覆うこともなく、それ故に私はよしの片づけを手伝うことができたのだろう。私は何も見ていない、最後まで。
 よしの命じるままに、畳らしきものをはがし、冷たい風の吹きあげてくるその場所に、柔らかな肉を落とし、そして再び畳らしきものをはめた。目を瞑った私が不自由ないように、よしは細やかな指示を出してくれた。鼻腔を不快に刺し続けた血の臭いが、ふいに薄まった。熱帯の花は、仏間から去った。
「……ありがとう、しょうちゃん」
 よしは微笑の気配を濃くにじませた。
 かたわらにいつの間にかよしは体を寄り添わせており、芳しい体臭が失われた血の臭いを埋めるように立ち上っている。甘美な匂いに抗えるほどに私は強くなかったが、しかしそれ以上に疲弊していた。
「……もう、帰る」
 ぽつりと呟くと、よしは引き止めなかった。
「じゃあ、気をつけて帰ってね」
 玄関を出るまで私の手を引いてくれ、私が玄関の敷居を踏み越えたとたん、言った。
「ありがとう。もう、来ないで」
 振り向く勇気はなかった。
 背後でゆっくりと引き戸が閉められた。
 断絶。
 それは私とよしの断絶であり、私と弟との断絶であり、また私と子供時代との断絶であった。私は家に帰り、母に執拗に責められ、それからその夜、熱を出した。一か月ほど寝室にこもり切った私が床を離れる頃には、全てが過去になっていた。よしと遊んでいたこと、弟がいなくなったこと……現実として残ったのは、母と、狂乱のレコードだけだ。レコードは末期の時を迎え、旋律が消えうせるまで、鳴らされ続けた。よしの家を失った私は、雑音ばかりのレコードに耳を傾けながら、部屋の片隅で膝を抱えていたものだ……そんな話も、今となっては懐かしき過去のことなのだが。

 母が精神科に通うようになり始め、私の生活は激変し、叔母の家に私は住まうようになり、それから嘘のような平穏が訪れた。レコードから解放された私はいまだに音楽恐怖の一念がぬぐえぬまま、それでもどうにか成人をした。
 母は去年、この世を去った。幼いころ行方不明になった弟は、今でも見つかっていない。私は時折、ひどく懐かしい気持ちにかられ、よしのことを思い出すが、甘酸っぱい思い出の終わりはいつも鮮やか恐怖に縁どられている。私は、時折、よしの夢を見る。よしと結婚する、と意気込んでいた自分の幼さを哀れに愛しく思う……私はあの日失った幸福を、つまりは再び手に入れることが叶わずにいるのだ。
 ある日、電話がかかってきた。
 叔母から渡された受話器を手に取り、耳をつけると、ほのかに甘い体臭が受話器から香った。まさか。私は苦笑する。苦笑しながら、予感している。それは子供時代の続きの予感だ。
「……」
 受話器向こうの誰かが、何かを囁く。
 いたずら電話かもしれない。けれど、私は電話の主を知っている。
「……よし?」
 呼びかければ、ふっと受話器向こうの空気が揺れた。微笑したのだ、と私は思う。懐かしいよしの微笑……よしが、私を呼んでいる。
 そのまま音もなく、受話器は置かれた。
 私は受話器を持ったまま、しばらく立ちすくんでいた。胎動する子供時代がとうとう私に合図を送ってきたのだ、そう思った。あの家で、よしが私を待っている。私は、外出の準備を始めた。
 鞄を持ち、靴を履き、私は玄関を出た。
 外には匂うような春の景色が待っている。暖かな風を受け、桜の気配を感じながら、私は生まれ育った土地へと急いだ。驚くことに家の近くの駅はなくなっており、最寄りの駅から長い距離をバスに揺られなければならなかった。
 町へ着く。
 記憶とは裏腹にうらさびれた、見捨てられた家々が続く。人の気配は絶えてない。ところどころに植えられた桜の木があたかも涙のような花弁を降り注いでいた。
 よしの家に、つく。
 家は記憶と寸分の違いもなく、いまだ、生きていた。誰かまだ住んでいるのだろう。手入れと生活の気配がきちんとあり、私は安心して戸を叩いた。
 ……静寂。
 音を吸うような薄闇が玄関の中に立ち込めている。摺りガラス越しに見えるたたきには、誰の姿もない。しん、と静まり返った一個の巨大な空白に、私も中身を奪われて立ち尽くした。
「……よし」
 引き戸を叩いてみるが、何の反応もない。
 しかたないので玄関から横の庭へ、ぐるりと足を延ばしてみる。
「よし、来たよ。いないの?」
 呼びかけてみるが、家の中は静まり返ったままだ。
 私は縁側の暗いガラス窓に顔を寄せ、中の様子を伺ってみる。
「……しょうちゃん?」
 よしの声が、聞こえた。
「来てくれたの? いいよ、上がって」
 か細い声は耳を澄ませないと、聞き取れない。けれど確かによしの声だ。私は嬉しくなって、靴を脱いだ。
 ガラス窓は鍵が開いていた。上がると厚い埃が足の裏を汚したが、そんなことはどうでもいい。よしの声は障子の向こう、暗い部屋の奥から聞こえてくる。
「……よし? 入るよ」
 障子に手をかけると、思いのほか軽く滑った。
 私は部屋に足を踏み入れて、そこが仏間であることに気づく。高鳴る鼓動。けれどもう怖くはない。あれから随分年月が経っている。私は世の中のいろんなことを知った。知らなくてもいいことも、知りたくないことも。そんなものの中で、私は一番知りたかったことに気がついたのだ。一番知りたかったこと、それを、まだ私は知らなかった。
「……しょうちゃん、久しぶり」
 仏間の闇の、一番深いところから、声は聞こえてくる。
 懐かしい声……そう、よしの声音はあの頃から寸分たりと変わっていない。男の子が大人になるなら当然迎えているはずだろう、声帯の変化を、よしは知らない。
「……よし。久しぶりだね、会いに来たよ。電話、くれたでしょう」
 私の声に、よしは微笑でもって返事する。
 よしも私に会えて嬉しいのだ、思えば、体の底から蜜がわいた。
「あの後、大変だったでしょう。ずっと来れなくて、ごめんね」
 なんと都合の良い言葉が出ることか。今の今まで放っておきながら……それでも、私の言葉によしは穏やかに微笑っているようだ。
「あの頃は楽しかったね。僕もまだ……だったし、幸作ちゃんもいたし……ああ、しょうちゃんは綺麗になったねぇ」
 似合わぬお世辞などをくゆらせて、よしはいまだ闇の底から出てこない。気配を気取られぬように息をひそめて、あたかも獲物を狙う獣かのように。私は、微笑った。
「……ごめんね、よし。ずっと待っててくれてたんだね。ごめんね」
 私は仏間の中央に、そっと座った。
 この畳の下に、弟が今でも眠っているはずだ。弟にも私はすまない思いを持ち続けている。あの日、私が見捨てた弟。私の裾を握って離さなかった小さな弟。熱帯の花のように無残に咲いて、それから散った。
「……幸作ちゃんは、お父さんがやったんだよ」
「分かってるよ」
「しょうちゃん、結婚したの?」
 私の指先にはまった赤い指輪を見てそう言ったのだろう、よしは本当に私のことをよく見ている。嬉しくなって、私は言った。
「してないよ。言ったでしょ、よしと結婚するって。だから今日、ここに来たんだよ」
 埃っぽい畳に、私はあおむけに寝そべった。
 年を経るにつれて縁談だの見合いだの、うるさくなりそうな周囲を予期して、はめ続けていた指輪だ。格別の意味もなければ、相手もいない。私は指輪を外して、畳に置いた。
「……よし、遅くなってごめんね」
 それから、私は目を瞑る。
 目を瞑る前に、闇の中に蠢く異形を見たのだが、そんなことはどうでもよい。固く閉ざした瞼が、けざやかな幻を連れてくるのは知れたことだ。
 ……ずる、ずるり。
 何か重いものを引きずるような音が低く響き、わっと埃が舞うのが分かった。何かにのぞき込まれている。かすかに香る懐かしい体臭……私は手を伸ばして、よしの体を受け入れた。
 熱帯の花、と死んだ弟の体を私はそう形容したが、よしの体はそんな形容を軽々と超えた。生きながら死んだ者の体は腐り、熟し、地に落ちて熱される果実のようだ。光り輝きながら、朽ちてゆく。よしの体は甘かった。
 薄く、瞼が開いている。
 涙が閉ざされた瞼をこじ開けたのだ。私は、薄い闇の中によしを見る。よしという名の異形。記憶の底に封じ込めていたそのいとおしいものが、今、私の全身を歓びで貫いている。限りなく柔らかな肉となったよしの傍らに重ったるく引きずられているそれはかつての軟体動物、よしを犯した父親の成れの果て……接合部でぐずぐずと溶け合った彼らは、もはや境目を判別しがたくふたつでひとつになっている。今に私も、よしの一部となるだろう。思えば、深い充足が私を満たした。
 私はもうレコードに怯える小さな子供ではないのだ。
 はだけたワンピースの裾を直しながら、私はもう一度目を瞑った。
 もう二度と、目を開ける気はなかった。

#眠れない夜に

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