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嘘つく男(前編)

 男が嘘をつくのは日常茶飯事のことだった。
 友人に、女に、見知らぬ人に、通りすがりの老人に、落し物を拾ってくれた小学生に、彼はいつも気がつけば嘘をついている。呼吸をするより自然なことだ。例え彼が窒息死したとして、しかしその何秒後かには彼の口だけが喋りはじめていることだろう。嘘だけをつらつらと並べ、喋々とする。
 嘘を並べ立てるとき、彼の顔は輝いている。いつもはむっつりと押し黙りつぐまれる唇がそのときばかりは生き生きと艶めき、ひっきりなしにありもしない物語ばかりを語りはじめる。しかし彼が嘘をつかぬときは眠るあいだを除いてないので、自然、彼はいつもひたひたと精力に満ち溢れ輝いているのだった。
 男を愛する女が現れる。彼女らは初め男に熱を上げ、十全なる愛を惜しみなく注ぐのだが、しかし数ヶ月もすると彼に飽き、憎み、やがて目さえ向けなくなるのだった。
 彼がそれを嘆くことはない。彼にとって日常とは壮大な嘘の塊であったため、また女たちも虚であった。いくら来ようが、はべろうが、去っていこうが、彼には一向に関心のないことであった。
 だから、それが起きた時も彼は別段気にとめることはなかった。
 どうせまた女たちのいずれかが戯れに仕掛けたことなのだろう、そのぐらいにしか思わなかったからだ。

 ある日、男が目覚め、郵便受けを覗きに行くと、それは玄関のドアノブにかかっていた。
 愛らしいレースをあしらった実に女性らしい小さな袋……真っ白なそれは、朝陽の中、彼を待ち受けるかのように輝いていた。
 男のもとに訪れる女たちは昔からそう少なくなかったので、男はまた新たな女が現れたのだろう、そう思っただけだった。
 今までにもシャイな女には何度か出くわしている。今回もきっとそんな女がまた彼を何処からか見初めたのだろう、そう思ったに過ぎなかった。
 彼は郵便受けから新聞を取り、そして何気なくその白い袋も手に取った。
 まるで鳥の羽でも詰めたかのように、現実感のない軽さだった。
 ふと興味をかられて、その場で男は袋の中を覗き込んだ。
 純白な朝陽の中で、袋の中身もまた純白だった。
 手、と男は思った。
 狭い袋のなか、あたかも身をひそめるようにうずくまるそれは、確かに手以外の何ものでもなかった。男はそれを持ち上げた。
 朝陽に透けるようなそれは、微かに静脈を浮かす白い手だった。
 人間の手首から先をぶつりと切り、それに丹念に粘土を塗りつけたかのような……しかし本物の肉がそこにあるはずはなく、それはつまり人間の手をかたどった塑像らしかった。
 ……ふうん。
 珍奇な贈り物に彼は目を細め、感嘆を洩らす。
嘘を愛すだけあって、男は虚の世界に住むものをことごとく愛した。それは芸術の世界にも及んでおり、彼はことに彫像や塑像を愛したのだった。
 しかし、彼がそれを他に洩らしたことはない。
 呼吸よりもよく嘘をつくわりに、彼は本当のことを喋らない。本当のことはみな、かそけき重量を含んでいる。そのかすかな重みがひとつ重なり、もうひとつ重なり、そのようにして人々が身を重くしてゆく様を男は最もいとうている。故に、男は一切のほんとうを重篤な秘密のように我が身のうちに隠しているのだった。
 だから、男に近づく女たちも男のほんとうを何ひとつ知らない。しかしだからこそ男は、無知で愛らしい女たちを心の底から愛せるのだった。
 そのような日々を送ってきた男だけに、眼前のそれには少なからず驚いた。
 一体誰が彼の秘密を知りえたのだろう。彼が知られることを恐れ、その肉の内側に常に囲い込むその秘密を? 考えれば考えるほど、男は首をひねりたくなるのだった。
 朝陽に透かし見る白い手を、男は再びレースの袋の中に戻す。もし万が一、誰かに見られでもして、自分の大切な秘密が体外に漏れてしまうことを恐れたのである。

 部屋に戻り、男は改めてその手を取り出した。
 丹念に塗り込められた白に色を施せば、それは素晴らしい虚像になるに違いなかった。
 静脈の薄く浮く、わずかに骨ばった手……それは、女の持つものではあるまい。
 ある予感を持ってして、男はその手を宙にかざした。塑像の手の横に、自分の手を並べてみる。予想したとおり、ふたつの手は寸分の違いもなく似通っていた。
 ……どこで。
 まず、思うのはそれだ。
 一体、どこでこうも自分の手を見事に複写しえたのだろう。
 そして、勿論、次に浮かぶ疑問はこれだった。
 ……一体、誰が?
 そう、それこそが最大の疑問であるように思う。
 男が自らの嗜好をひた隠しにし、嘘で塗りこめてきた結果、男の周りの誰もほんとうの彼を知りえない。それを誰が知り、誰が理解し、誰がこのような戯れをしかけてきたのか。それが問題なのだった。
 男の周りの女たちに、こんな器用な真似をする者はいない。ならば、やはり新参者だろうか?
 でもそれならば、ほとんど彼に接触することもなしにどうやってこのような精巧な塑像が作れたのか。いくら考えても、分からないのだった。
 ……知りたい、と思う。
 しかし知ることは、知られるということの裏返しだ。
 男が知れば、相手もついには男のほんとうを知ることになるだろう。嘘で塗り固め、ひた隠しにしてきた男には、それが恐ろしい。父にさえ母にさえ、男はその柔らかな腹の内をさらしたことがなかった。それでも、男は好奇心に勝てなかった。
 しばらく考えた末、男は手を袋に返し、それから一通の封筒をそのかたわらに添えた。そして袋を何気なく玄関のドアノブにかけると、そのまま家を出た。

 営業の仕事というのは、いわば男の天職かもしれなかった。
 ぺらぺらぺらぺら、自分の身には関係のないことを虚実取り混ぜてもっともらしく語り続ける。営業と言う仕事に求められるそれは、結局のところそういうことだった。
 嘘ばかりをつけばトラブルにもなろうが、しかし少量の嘘ならばいわゆる会話の潤滑油、と許されることが多かった。
 それに男は自社の製品に全くもって興味がない。その興味のなさゆえに、彼は平気で製品に対するほんとうをぶちまける気になるのだった。
 顧客は彼の対応が誠実であると評価し、男の成績はまずまずだった。ただし仕事に対する熱意が圧倒的に欠けているので、必要以上の出世はしなかった。ある一定以上の成績を得れば、その月はもう満足してしまう。そんな彼の業務態度を、上司などはもったいないとよく分からぬ文言で嘆くのだった。

 その日も、彼は行きつけの喫茶店でぼんやりと過ごしていた。今月の営業目標は最低限達している。後は彼の自由時間だ。男はそんな時、よくこの喫茶店を訪れた。
 喫茶店は、解読不能の横文字の名前を冠している。
 樫の木でできた厚い扉を押せば、アンティークの家具やテーブルがあり、かと思えば昭和の頃を思わせる回顧的な安物たちが顔をのぞかせ、奥のほうには男の知らぬアイドルのポスターなどが貼ってある。その焦点の合わぬ、いかにも胡乱な空間が男の好みに実に合い、数ヶ月前に見つけて以来入りびたりとなった。
 店の雰囲気が災いしてか、客はあまりいない。いつも男ひとりか、それに多くて二人くらい……
 いつか潰れるのだろうな、と男は思う。ならば潰れるまで、せめて昼夜を通して通い続けよう。気がつけば、そう心に決めていた。
 カウンターには、ひとりの老翁が置物のように座っている。
 店のアンティークの中で最も年を得ているのではないかと思わせる、その老翁の姿が男は好きだ。
 見るからに重々しい風貌は、しかし薄っぺらな中身が透けて見えるようではないか。店の調度に重厚なアンティークを多用し、自らを覆う鎧とし、老翁は己の軽い魂を地上に繋ぎとめようとしたのだ。男には、そう思える。虚で塗り固めたもの同士にしか分からぬ、真実の気配がそこにはあった。
 男は日の当たらぬ席に腰を下ろし、いつものようにコーヒーを頼む。
 男のぼそぼそとした声音を掬い取るのは、無口で無愛想なウェイトレスだ。装飾の過剰なウェイトレスの衣装をいつものように漫然と眺めながら、この女かもしれないな、と何とはなしに男は思った。
 仕事に蹴りがつけば、月の大半はこの喫茶店で過ごしている。時の流れになかば放心する男の姿を、このウェイトレスなら比較的近くで眺めることができるのではないか。そう思ったのだ。
 コーヒーを運んでくるウェイトレスの顔をさりげなく見やりながら、男はその可能性について模索した。
 ウェイトレスはいつも唇の内側で喋る。外に放たれる音はなく、故にひどく聞き取りづらい。唇の合間から漏れる吐息に耳を澄ませるような按配で、男はいつも彼女とやりとりをする。
 容貌は、十人並みといったところか。地味で目立たぬ顔をしている。装飾過剰な店の制服が彼女には少しも似合っていない。衣装の過剰は中身の虚ろさを際立たせる。
「ご注文は以上ですか」
 呪文を唱えるかのように口ずさむその双眸が、男の机上の手を見ている……ようにも思える。
 男は、伝票を記すウェイトレスの華奢な手を眺めてみる。
 不器用ではなさそうだ。では、ほんとうにこの手があれを作ったのだろうか? しかしその段になると、たちまちにして男の推測はしぼんでゆく。
 この女ではないだろう。男は、思った。
 しかしそれならば一体、誰が塑像の送り主なのか?
 疑問はたちまちにして、出発点に戻った。

 律儀に定時の五時までを喫茶店でつぶし、男はそのまま直帰する。
 家に帰ると、朝のままレースの手提げ袋がドアのノブにぶらさがっている。何の気なしに、手を伸ばした。
 袋は今朝よりもわずかに重みを増している。
 のぞくと、塑像はふたつになっていた。

 居間の電気をつける。そぼ降る灯りのもと、男はさすがに困惑していた。
 朝はひとつだった塑像が二つに増えている。ひとつは手、もうひとつは……光の下に取り出せば、それもやはり手なのだった。
 しかし、全く同じものではない。
 光にかざしたそれは、小指の骨が微かに右にずれている。やわらかに折り曲げられる他の指たちとは一線を隔すその不自然な折れ曲がり……それは、男の左手をそっくりそのまま写し取っていた。
 ……嘘だろ。
 男は吐息をつく。
 彼の左手の小指は確かに不自然なゆがみを持っている。中学生のとき学校の授業のバレーで、骨折したのだ。今では動きに負担はないが、しかし外見上、かすかな歪みは残ってしまった。それを塑像は、正確に写し取っているのである。
 ……一体、誰が。
 喫茶店のウェイトレスの顔が一瞬浮かびかける。あの女だろうか?
 いや……首を振る男の目に、ふとそれが映った。レースの手提げ袋の底の方……それは、男の目を避けるように身をひそめていた。
 拾い上げたそれは、一通の封筒。
 朝、男が袋に放り入れたものだ。男は落胆の吐息を重ね、それから気付いた。
 白い封筒の片隅に、細い文字が書き込まれている。小さな小さなその文字に、男は目を凝らした。
『……狼少年の行方』
 文字は、確かにそう読めた。
 すうっと、男の顔から血の気が引いた。
 そのまましばらく、男はソファから動かなかった。

(つづく)

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