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エッセイ「鉄道員の子育て日記 ⑦ビバ!社宅」

「うるさーい!」

 居間の方から、かみさんの大きな怒鳴り声が聞こえる。洗面所で歯を磨いていた我が輩は、「また怒られたか」と思いつつ、今から自分の身にふりかかろうことを予想して、そそくさとうがいを始めた・・・。

 日曜日のお昼前、家の中では朝からかみさんが朝食の用意、洗濯そして部屋の掃除と、休む間もなく働いていた。「なにも休みの日にまで、家事に張り切らなくてもいいのに。」と我が輩は思いながら、家事分担として朝食の食器洗いのみをとっとと終えて、後は手伝うこともなく好きなビデオなど見ながらダラダラと休日を満喫していた。

 一方、ふたりの子ども達はいつものように、部屋を好き勝手に散らしまわって遊んでいる。特にもうすぐ三歳になる娘は、最近おしゃべりが達者になり、三つ年上の兄ちゃんと会話も出来るようになってからは以前にもまして仲が良くなり、ふたりで遊ぶことが多くなった。彼らには、「小さい時は、『食べる・遊ぶ・寝る』と三つのことだけをいっぱいしなさい。」と言って育ててきた。そのおかげか子ども達は大病することも無く元気に育ち、幸いなこと限りない。が、元気がありすぎて、そのパワーについていけなくなる時もあり、時々「背中にスイッチでもついてないか?」と最近、流行りの電子ペットを欲しがる人のような発想になるときも正直ある。親とはほんと大変なものである。

 子ども達は、さっきまで子ども部屋で絵本やブロック、『黒髭危機一髪』ゲームなどを部屋中にさんざんばらまいて遊んでいたと思えば、今度は居間にまで侵入し、はさみを勝手に取り出してそこらへんにある紙を切って遊び始めた。娘も、まだ小さな手のわりに妙にハサミの扱いが上手で新聞の広告やら色紙などを、自分の好きなように細かく切り刻んでいく。「まだ、子供だから」と理解は出来ても、自分が片付けても、片付けてもすぐにまた散らかる部屋を憂えてかみさんのイライラが増えていく。

 ふたりはとうとう部屋の中で鬼ごっこを始めてしまった。ドタバタと廊下を走るその姿を、左手に掃除機の本体を、右手にそのホースをかかえたまま傍観していたかみさんは、自分ひとりだけあくせく働くのが嫌になり、そして・・・。


 ついに冒頭の爆発となり、休日はやっと新しい展開をみせ、一日が動き始めることになるのである。

「あなたたち、部屋片付けなさいよ。」
「お父さんも茶碗だけ洗ったからといって、のんびりしないでよ。」
「遊ぶんなら外で遊んできなさい。」
と、沈黙の状態がひとたび破れると、後は堰を切ったようにかみさんの無差別攻撃が始まる。こうなると黙って降参するしか手は無い。一度沸騰したお湯はしばらくしないと冷めないのである。散らかった紙くずを次々とゴミ箱に放り込み、子ども部屋の惨状にも応急処置を施すと、まもなく我が輩たちは家から逃げ出すように近くの公園に遊びに出るのだった。それが、休日を皆が幸せに過ごせる、つまり”父親と子どもが絆を深め”、”母親が育児から瞬間的に開放され”、おまけに”部屋がきちんと片付く”という一石三鳥の方法なのであった。

 公園は社宅から近いところにあるので、同じ社宅に住む息子と同じくらいの歳の子どもや、娘をかわいがってくれる年上の女の子達が遊んでいて、時には一緒に遊ぶことにもなる。今日は、息子と同じ幼稚園の友達がお母さんと公園にいたので、一緒に砂場で山をつくりトンネルを掘ることにした。砂山にトンネルを掘るのは、簡単なようで案外難しい。砂山に適度な固さが無ければ、掘っている時に簡単に崩れてしまう。特に公園の乾いた砂ではなおさら無理で、我が輩はバケツに水を汲んできて水をまきながら砂山をつくることを教えてあげる。

 「いいか、地山を崩すことなく掘れば、山が崩れることはない。それがナトム工法の原理だ」と仕事の関係で、最近新幹線の業務の関係で読んだトンネルについての専門書からの受売りの知識を用いて、わずか五歳の子ども達を相手にトンネル掘りのウンチクを語りながら一緒に掘り始める。

 そんなおとなの言い分など子どもたちは聞いてはいないのだが、小さな手やおもちゃのスコップを用いて上手に掘って行く。「周りを崩さないように、崩さないように」と、少しづつ子ども達はトンネル掘りに夢中になっていく。ふたりの手が砂山に隠れて見えなくなっていく。「もうすぐつながるぞ。ゆっくり、ゆっくり。」と慎重に掘るように指示する。ついに砂山の中央で壁が崩れ、トンネルを掘っていたお互いの指が触れ合うと「やったー!つながった」とトンネル開通の瞬間を、本物に比べればほんの小さなスケールだが無邪気に喜び合う。そんな姿を見ていると自分が幼少の頃に、同じ社宅に住む人たちに遊んでもらった思い出がよみがえってくる。 

 父親が国鉄職員だったため、我が輩は小さい時から社宅暮らしをしてきた。考えて見るとこれまでの三十七年の人生のうち、二十二年という長い年月を色々な場所の鉄道官舎で暮らしている。当時から鉄道の職員は転勤が多く、我が輩も何度となく転校を余儀なくされた。北九州の門司で生まれ熊本、福岡の大牟田など六回ほど場所を移り替わった。建物のタイプも平屋のものからブロック型と呼ばれる二階建てのもの、そして中三型と呼ばれるいわゆる3LDKと呼ばれる現在の主流となっているものまで経験した。子どもの時には当然、親が借りていた社宅であったが、今は自分が借りて子どもたちと一緒に住んでいることを思うと「時の移り変わり」の不思議さを感じる。

 子どもの時に過ごした社宅のことを少し思い出してみる。まず、当時の国鉄の社宅には電話が二つあった。ひとつは電電公社、つまり現在のNTT電話。もうひとつが当時鉄道電話と読んでいた、いわゆる今のJR電話。何故、家の中まで鉄電があったのかと思えば、事故時などの緊急呼び出しのためであったろう。この電話で電力関係の仕事をしていた父親が夜中に呼び出された時に一度だけついていったことがある。小学三年の頃だったと思うが、当時ゲイラカイトというアメリカ産まれの凧がはやっていた。今までの凧に比べ、簡単に高く上がるので当時はとても欲しかった物であった。昼間に糸が切れてずっと飛んでいたのか、その凧が夜中に電線にかかったということだった。父親は「うまく取れれば凧をやるぞ。」と小さかった我が輩を物欲でうまく誘い出し、現場まで同行させたのだった。現場には確かにゲイラカイトが架線に引っ掛っていた。これは、もしかしたら新品同然で手に入れることが・・・」と思った瞬間、貨物列車が轟音と共に通りすぎ、その洋凧は見るも無残な姿になってしまっていた。この時、間近に通りすぎる列車をやり過ごした時の大きな音と吹付ける風の恐怖みたいなものをよく覚えている。
 よくよく考えれば父親が、危険な現場に子供を連れて行ったことは、我が輩が今、現場の事故防止を考えれば許されないことだが、この件は時効としたい。

 また、大牟田は炭鉱で有名な町であったからか、社宅には石炭で沸かす風呂があった。当時、まだ蒸気機関車が残っており父親がどこからとなく石炭を調達して来た。これを使って風呂を沸かすのだが、父親や兄貴がするのを、見よう見真似でやってみる。が、なかなか石炭に火がつかないし、一度風呂が沸き始めると今度は温度の調節が出来ず苦労した。現在のガス風呂と比べると不便なことこの上ないが、その分思い出の深い経験である。

 特に印象に残っているのが社宅からの引越しで、当時は一種のお祭りのようであったのを覚えている。引越しの日になると、平日にもかかわらず父親の職場のひとたちがたくさんやって来てくれて、五階建ての社宅の階段を何度となく昇り降りしてダンボールの荷物をトラックまで運ぶのである。当時は今のような引越し専門の会社は使わず、みな自分達でやっていたのである。引越しで特に豪快だったのは、タンスやテレビ、冷蔵庫など大きな家具類を一旦ベランダに出して、それらの荷物をおよそ五階建てのアパートの屋上部に取りつけられた滑車を利用して、ロープとネットを使って取り降ろしを行うことであった。人手をたくさん集めて綱引きみたいに懸命に引っ張ることもあれば、車を持っている場合はロープを車に取りつけて引っ張ることもあった。この方法は、とてもダイナミックで印象的だった。たまにネットから家具が落ちてバラバラになったことも含めてである。

 一方、母親は集まってくれた人達のために近所の奥さん達に手伝ってもらいながら炊き出しを行っていた。荷物をトラックに積み込んでしまうと、ガランと広くなった部屋で男たちの宴が始まるのである。当時、子どもであった我が輩もその中に混じってたくさん並んだ料理やお菓子を食べたことを覚えている。子どもとはいえ、段ボールの荷物を何度も運んで活躍しているので、堂々と食べる権利があった。おとな達の中に混じり、一緒に汗をかいた後に食べるおにぎりはとてもおいしかった。

 現在の社宅生活にもたくさん魅力がある。昔からそうであるが、社宅の中の子供達はけっこう縦につながった良い関係を築いている。社宅内の空き地では年上の子が、小さい子どもをかわいがり面倒を見てくれる。また子どもの親、特に母親どうしも子どもの共通の話題で親しくなっていく。使わなくなったおもちゃや着れなくなった洋服、買えばかなり高額な幼稚園の制服などを譲りあう、「助け合い」の生活が行われている。親しくなると、一緒に買い物や食事に出かけるようになる。みんなバーゲンシーズンになると、その話題で持ちきりである。また、お喋りも楽しくて弾むらしく幼稚園に通う子どもを見送った後、井戸端会議がはじまるのだが、園が半ドンの日には、子ども達が帰ってくるお昼頃までそこで立ち話をしていたこともあるほどである。  

 ある時には、こんなことがあった。夕刻遅くに、隣の子どもが我が家の玄関を叩いた。何の用かと尋ねると、「家の鍵がかかっていて入れないから、ベランダを通らせて欲しい。」というのである。アパートのベランダは通常、火事の場合には突き破る前提の薄い壁で仕切られているものだが、良くも悪くも社宅のベランダにはその壁がなく、その気になれば建物の端から端まで通り抜けをすることができる。隣りの子どもは我が家に上がり、居間からベランダに出て、窓から自分の家へと無事に帰っていった。もちろん我が家の子ども達も隣りの家に同様の手口で、勝手にお邪魔しているわけである。そして、このことは自分が子どもの時にも、まったく同じことをしていたのである。なんともはや懐かしく、楽しい思い出である。

 砂場での遊びもそろそろ飽きてきた。もうすぐ一時にもなる。やかんのお湯も冷めたころである。我が輩は子供たちに「もう帰るぞ。道具片付けなさい。」と催促をする。一緒に遊んだ友達のお母さんにもあいさつをする。お母さんの横のベビーカーには七箇月になる赤ちゃんが今はおとなしく眠っている。「この子もあと二年ほど経つと、一緒に公園で遊んでいるんだろうな」とふと考える。お母さんには気の毒だが、まちがいなく兄貴に似て元気もんとなること間違いなしである。

 ここまで、ずっと良いことばかり書いてみたが、社宅には色々なひとが住んでいるので当然、人間関係の問題がないとは言えない。共同で行う掃除なども出るのが面倒だなと思う時もしょっちゅうである。しかし、最近の民間のマンションのように表札も出さないで、隣りに住んでいる人がどんな人か判らないと言う話を聞けば、近所付合いがあることは、とても良いことと思う。

 当然、転勤での移動があったり、いつかはみんな家を持って社宅を出て行く時が来るのだろう。かみさんも仲良し友達と離れ離れになる。しかし、社宅で同じ境遇を過ごした母親達のきずなはとても強いもので、簡単に切れるものではない。なぜなら我が輩のおふくろは、事実、今でも当時の社宅の友達と旅行などしてとても楽しく過ごしているのだから。 

社宅、万歳!


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 昔、国鉄の官舎というものが日本のたくさんの町にありました。当時の国鉄は土木技術、例えばトンネルを造る技術力なども最先端をいっていたとのことです。鉄道の社宅には、贅沢にもテニスコートがあったり、鉄道電話と呼ばれる線路の敷地に電話回線をはった、電電公社(現NTT)とは別の回線を持っていたのです。社宅の敷地内には「物資部」と呼ぶ、スーパーマーケットがあって、市販のものより安く買うことが出来ていたようです。しかも、つけで買うことも。
 栄華を誇っていた鉄道も自動車の台頭とともに、赤字に陥り、分割民営化そして、現在のローカル線の危機を迎えています。各鉄道会社の社宅も減っていったり、マンションタイプのものが主流となり、以前のようなつながりは少なくなっているようです。

 日本の社会は、会社がある意味で家族ぐるみの取組みをしてきました。若いひとたちへのお見合いの紹介であったり、結婚式は会社の上司に仲人を頼んだり、その後もなにかと気にかけてもらったりと・・・。少し窮屈だったのは間違いないかもしれません。
 それが、個人の生活を重視するあまり、少しづつ会社内のつながりが弱くなり、孤独に陥っているひとがいるように見受けます。
 価値観が多様化し、おとなでも自分の生き方に自信がなくなっているひとも少なくありません。このような社会ではこどもたちもなおさら迷うことになるのではないかと思います。
 社会人とは「会社(仕事)」、「(自分の)家庭」のみならず「近所つきあい」の3つをバランスをとりながら、生きることが大切だと思います。
「仕事人間」ではダメ、「自己中心的」でもダメ、心に余裕をもって他人の子供が危ないことをしたり、道を失っているのに気づいたときは、人生の先輩として、アドバイスをしてあげたいと思います。

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 今、行き過ぎた自動車偏重社会のために、足元であるバスや鉄道などの公共交通機関が危機を迎えています。この状況を打開するためには、必ず未来を創造する能力が必要です。noteを利用する方は創作意欲に長けた方が多いと思いますので、どうか一緒に鉄道の地方ローカル線を活性化して、不安がない社会を作ることにお知恵を貸していただければと期待します。


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