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「善意の行方」

久しぶりに映画館に行こうと思い、最寄りのバス停からバスに乗った。

バスはそれなりに混んでいて、通路もふさがっており、皆、奥の座席に行くためには申し訳なさそうに肩をすぼめなくてはならなかった。

電動車椅子のままで公共のバスに乗るためには、通常の座席を2つ分跳ね上げ、専用スペースを確保する必要がある。

運転手が慣れた所作でスペースを用意し、後部ドアを開けて車椅子用のスペースをセッティングする。

ここまでは順調だ。私もバスには乗り慣れているから、特に戸惑うことはない。運転手に軽く一礼をして、スロープを上がっていく。

乗客にぶつからないよう気をつけながら、車椅子を慎重に切り返して専用スペースに車椅子を入れる。車を運転したことはないが、縦列駐車の感覚に近いかもしれない。

車椅子がきれいにスペースに収まったのを見ていたのか、すぐ近くの手すりにつかまっていた女性がさりげなく手を伸ばし、備え付けの固定ベルトを車椅子のフレームにつなげようとしてくれた。手すりとフレームをベルトで結ぶことで車椅子が安定し、走行中の転倒事故を防ぐことができる。

その瞬間だった。

「結構ですよ」

背後から運転手の鋭い声が聞こえた。おそらくは「それは私の仕事だからあえて手を出さなくていい」という意味なのだろうと、バスに乗り慣れている私は理解した。

そのように注意されることを想定していなかったのだろう。女性は声に反応するようにほんの一瞬指先を震わせ、私と運転手に一礼しつつ素早く手を引っ込めた。

まるで、教師から不意に秘密を覗かれた従順な生徒のように……。

運転手は何事もなかったように固定ベルトを車椅子に取りつけた。

バスが発車してから降車するまで、女性が私に視線を合わせることはなく、車内にはただただありふれた時間が流れるだけだった。

誰も間違いを犯してはいない。

思わず手を差し伸べようとした女性も純粋な善意からの行動だろうし、運転手にしても、バスの運行マニュアルに従って、安全に発車できるよう最善を尽くしただけだ。

バス会社の規則では、万一の事故を防ぐため、車椅子の乗降介助、および車内での固定は必ず運転手が行うことになっている。

しかし……。

運転手に鋭く注意され、反射的に手を引っ込めてしまった女性は、どういう気持ちになったのだろう。

あえて詩的で、感傷的な表現が許されるなら、はからずも行き場を失ってしまった彼女の善意はどこにいってしまったのだろうと、ついつい考えてしまうのである。

彼女が些細なことを気にしない楽天的な性格だったら、あるいは、このような「善意のすれ違い」に慣れっこになっているような人だったなら、運転手に多少きつく注意されたところで気にせず、また別の場面でもさりげないやさしさを発揮できるだろう。

しかし、もしも彼女が繊細で、運転手の言葉によって「善意が消えた」と感じてしまったら、この先、同じような場面で善意を振り向けることができるだろうか。

駅の自動改札機にモバイルSuicaを通せず立ち往生している私に声をかけようとして、無言で立ち去った女子学生。書店で落とした本を拾おうとしてヘルパーの存在に気づき、手を引っ込めた男性。道端でスマホを見ている私を体調不良だと思い声をかけたが、コミュニケーション方法がわからず、申し訳なさそうに立ち去った女性……。

善意のやり場に困り、仕方なく立ち去っていく人のやりきれない顔を、私は何度も見てきた。

善意は非常にもろく、ちょっとしたことですぐに消えてしまう。そして、一度消えてしまった善意は後悔という分厚い蓋に押し込められ、容易なことでは再び表に出てこない。

善意が消える瞬間に接したとき、私はいつも、吉野弘の「夕焼け」を思い出す。

混み合う電車の中での善意の行方を繊細に描いた叙事詩だ。

https://www.matatabi.net/Poetry/Yosi_01.html

消えかかる善意に接したとき……ありていに言えば、誰かの優しさに触れたとき、私は必ずその人の目を見て軽く会釈するようにしている。感謝の言葉がとっさに出なくても、目を見てしっかり会釈をすれば「ありがとう」の気持ちは伝わると思うからだ。

現に、9割以上は私のメッセージが伝わり、会釈を返してもらうことができる。

それでも不充分だとすれば、「ありがとうございます」と書いたプレートをあらかじめ車椅子に取りつけておくなど、新たな工夫が必要になるだろう。

試行錯誤そのものが私が見せられる善意への誠意である。

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