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「(表現者)と(発信者)のはざまで」

時事系YouTuber・たかまつなな氏がまたしても炎上中である。

4月9日に投開票をむかえた統一地方選挙に先立ち、若者への啓発目的で制作した「若者よ、選挙へ行くな」という動画が「高齢者を悪者扱いしている」との批判に遭い、燃え上がっているのだ。

一連の批判・炎上を受け、釈明の場としてアップしたのがこちらの動画である。

上記の動画はテレビCMとしても放映されたということで拡散性が強く、より多くの人の目に触れたことも大炎上につながったのだろう。

動画そのものの是非やクオリティについては、ここではあえて触れない。たかまつなな氏がYouTuberである以上、言論の自由は保障されるべきであり、動画の評価については受け取った人ひとりひとりの主観に委ねられるべきである。

ただ……件の動画を見て私がまず感じたのは「禁じ手を使ったな」ということだった。

仮にたかまつ氏が表現者であるならば、一度世に送り出した作品そのものについて、いかなる弁解も釈明もしてはならない。

たとえ、どんなに不本意な形で批判され、炎上してしまったとしても。

表現者である以上、作品のみをもって不特定多数の読者・視聴者と対峙しなくてはならない。

「あの作品のこの部分はこういう意味ではなかった」と後出しじゃんけんのようにくどくどと説明し、言い訳をくわえることは表現者としてはタブーであり、ダサいのである。

表現者にとって送り出した作品こそが「表現」そのものであり、それがすべてなのだ。もし、不本意な形で批判され、少なくない誰かを傷つけてしまったとしたら、次の表現によって補足をし、読者・視聴者とあらためて対峙するしかない。

仮に、釈明や弁解が許される表現があるとすれば、それは、単なる発信である。ただの情報である。

発信した情報に誤りがあれば、ただちに訂正しなくてはならない。

「只今の情報には誤りがありました」

スピーディに訂正することは発信者としての誠意であり、受け手側との信頼関係をつなぎとめるための唯一の手段である。

言い換えれば、作品に対する釈明をくわえてしまった時点で、表現者としてのステージから降りたのと同じことだ。あるいは、たかまつ氏はすでに、自分自身を「表現者」とは思っていないのかもしれない。

それは、彼女の肩書がお笑い芸人ではなく、「時事系YouTuber」となっていることからも見て取れる。YouTuberとして時事にするどく切り込み、問題点を絶えず発信していくことがみずからの使命であると思っているのだろうか。

「表現か、発信か」という二項対立は些細な問題であり、たかまつ氏本人にしても余計なお世話かもしれない。

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