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フレッド・アステアを思う

映画「BroadWay Melody of 1940」、フレッド・アステアとエレノア・パウエルの「Begin the Begin」、あまりにも有名なダンスシーン。この80年前の映像を、いまだに週一回は観る。これは、僕にとってアメリカ映画のアイコンだ。 ミハイル・バリシニコフに「僕より上手く踊っている」と言わせ、マイケル・ジャックソンの「アイドル」だったフレッド・アステア、こんなに洗練された美しさはない。

    • オードリー・ヘップバーンの世界

       オードリー・ヘップバーンの映画には、恋をする喜びが溢れている。特に「シャレード」が好きだ。パリを舞台に、ロマンチック、サスペンス、コメディと映画を面白くする調味料がバランスよく降りかかっている。  夜のセーヌ川の船で、ケーリー・グラントとの世界はロマンチックだ。ストリーのベースは、ホテルで宝探しのようなサスペンス。ケーリー・グラントは、お洒落で面白い。  心ときめくおとぎ話の世界が、オードリー・ヘップバーンの映画にはある。

      • 🎼「人生の扉」に思う

         63歳になった。毎年この時期に小中学の同級生と温泉旅行にでかける。カラオケの最後は竹内まりやの「人生の扉」だ。60を過ぎてから聴くこの曲に心が震える。小中学生の友と唄うと涙が溢れる。  信じられない速さで 時が過ぎる去ると知ってから、この歌が特別のものになった。どんな人生だって、自分のものだから、価値があるに違いない。  「人生の扉」は、人生の応援歌ではなく、人生の悲しみ喜びを正面にとらえた静かな名曲と思う。

        • 🎼愛は勝つ

          🎼「愛は勝つ」は、最高傑作だ。これほど完成度の高い曲はなく、長年皆に歌い継がれるに違いない。 サビから始まり、まるでBサビ、Cサビのように流れ、無駄な音がひとつもない。詞ひとつひとつの文字に、音がひとつひとつ付いている。 「心配ないからね」で始まる言葉が、説得力に溢れ、愛は勝つとは断定せず、信じることが大事だと言うところが共感をよぶ。 そして、なにより唄うKANがたまらなく素敵だ。 神がこの曲を、皆に届けるために、KANを世に送ったのではないかと思ってしまう。

        フレッド・アステアを思う

          続・黒澤映画

          黒澤明は、僕を映画から遠ざけた。 黒澤映画に魅了されてから、他の作品が安易に思え、映画を観ることが減った。 黒澤映画は、エキストラの一場面でさえ、緻密で美しかった。 アクションの少ない場面でさえその迫力に圧倒された。 馬の躍動は、とても綺麗だ。 三船敏郎の動きは、まるでフレッド・アステアのダンスのように華麗だ。 黒澤の脚本は、万華鏡だ。 黒澤映画のテーマは、力強く生き生きとしている。 当時の映画評論家は、黒澤映画の面白さを正しく評価しなかった。スピルバーグとル

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          景気と言うにもほどがある!

          日経平均が最高値なのに、多くの人が景気が良いと感じないのは、景気という概念が消滅しているからだ。 1990年代前半頃まで、日本は、文化・経済が護送船団方式で単一化され、様々な価値を共有できていた。そしてバブルになり、多くの国民が景気の良さを感じられたのではないか。しかし、1995年のプラザ合意後、円安、輸出に主導された経済の好調は崩れバブルの崩壊がおこた。世界は、冷戦の終了と共にグローバル化が進み、価値観の多様化に直面した日本企業は、護送船団方式から独自の強みを持つ数少ない

          景気と言うにもほどがある!

          筒美京平を思う

          歴代最もCDを売った作曲家筒美京平。この事実を不思議に思う人は少ないかもしれないが、筒美京平がどのような人かを知る人はほとんどいないと思う。80年代の歌謡界を好きなように彩ったのに、表舞台にでることを嫌い、その人柄、生活はベールに包まれた。渋谷区の高級マンションに住み、仕事場は逗子の披露山にあったようだ。青山学院の初等部からなので恵まれた環境で育ったと思う。筒美京平は、広くお洒落に違いないリビングで、どんな心待ちで自分が作った世界をテレビで見ていたのだろう。育ちの良い東京人の

          筒美京平を思う

          黒澤映画

          あきれるほど能天気でHappyな映画、とてもお洒落なラブコメディ、残酷でないサスペンス、そんな1950.60年代のアメリカ映画が大好きだった。名画座を追いかけ、自分の部屋のテレビで、中学高校時代楽しい時間を過ごした。おかげで楽天的な人間になってしまった。 高校2年の頃(77.78年頃)、黒澤映画のリバイバルがありはまった。どの黒澤映画も新鮮で、僕にはとてもつもなく面白かった。50.60年代のアメリカ映画のかなりの作品を見てしまい見るものがなくなったこともあり、黒澤映画を見だ

          黒澤映画

          佐々木麟太郎に思う

          彼はアメリカの名門大学の学業の厳しさをわかってるいるのだろうか。日本と違い講義を聴き、レポートを書き単位を取得できる授業は少ないのではないか。授業では、発言力が重要で、英会話でなく相手を説得できる論理的な英語力が必要になるに違いない。野球との両立は、英語が母国語でない日本人にはかなりの難しかさではないだろうか。 MLBには、早ければ2027年に入団可能らしいので、多分それをめざしているのかもしれない。 ロッテの佐々木と同じように、バックに彼の商権を確保したい企業がいると睨

          佐々木麟太郎に思う

          香港 スターフェリー

          バックパッカーのバイブル、沢木耕太郎の『深夜特急』に出会えなかったら、僕の人生は味気ないものになったかもしれない。特に香港のくだりが好きだ。香港の雑踏な街の不思議さに魅せられた沢木は、予定よりも長く滞在してしまう。大切な交通機関のスターフェリーは、香港島と九龍地区を結ぶ。船はとても古い。わずか10分程の素敵な航海だ。船上でさわやかな風に吹かれながら見る香港島の夜景は、宝物だ。その夜景を見ながら、僕は自分の進路を漠然と考えてきたような気がする。スターフェリーは、人の運命をも運ん

          香港 スターフェリー

          江戸っ子はやるもんだ

          『江戸っ子はやるものである』という言葉がある。落語の落ちで「死ぬ最期は、つゆいっぱいひたして蕎麦が食いたい」とあるように江戸っ子は、昔から決められた江戸っ子のルールを好き嫌いに関係なく一生演じる。その姿は滑稽だ。僕の祖父は浅草で鰻屋を営んでいた。子供のころそばをつゆにたっぷりとひたして食べていたら怒られた。頑固で有名な親爺のいる浅草の鰻屋によく訪れた。本やTVでも紹介される店なので、客はうな重を写メするが、「うちはそんな店じゃねえから」と親爺は怒る。「おいしい」と言えば「うち

          江戸っ子はやるもんだ

          辻堂海岸

          20代の頃、よく湘南の辻堂の海でサーフィンをし遊んだ。特に秋の頃が好きだった。夏が過ぎ、人が少なくなった海は、もう熱くない太陽の光が水面に映り美しく、とても気持ちが良かった。まるで今のこの世界が自分たちだけのものと勘違いをしてしまうほどに。自分の人生は、ずーとこのままで過ごせると思っていた。同じ波が決して来ることがないように、秋の海に思い入れを持った自分はどこかに行き、その当時の自分と出会えることは二度とない。当時好きだったChristopher Crossの『Never B

          辻堂海岸

          鎌倉の稲村ヶ崎から見る富士は美しい。 江の島と湘南の海を主役にし、富士はその引き立て役にまわる。富嶽百景を書いた太宰は、そんな控えめな姿も似合う富士を知っていたのだろうか。

          鎌倉の稲村ヶ崎から見る富士は美しい。 江の島と湘南の海を主役にし、富士はその引き立て役にまわる。富嶽百景を書いた太宰は、そんな控えめな姿も似合う富士を知っていたのだろうか。