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定時の仕事

30代前半に、月200時間超の残業をしていた時期がある。
などと書くと、むかし苦労したから今のオレがあるなどと、自慢話を聞かされる気分になられるだろうか。
「今のオレ」自体が自慢できる境遇にはとてもないし、さすがに200時間越えは心身ともにボロボロになった記憶がある。真似してねとは、とても言えない。

だけどまぁ、たいがいのことに動じなくなったという意味では、動ける若い頃にムチャな一時期があっても、良いんじゃないかと思うんである。
それがために死んじゃったら元も子もないが、終わりの見えない期間と量を抱え、頼るものもない重圧の日々を過ごしていると、ある日を境にふっと、物事が好転し始める。
そうなると昨日までの事がウソのように、解決不能と思われた事象も順調に動き始めるのだ。

二度三度そんな体験を繰り返す内、「やってりゃなんとかなる」と、頭じゃなくて身体で覚えるようになってくる。逆説的なようだが、その時きつくても「死にたい」とまで思わなくなる。そのうちには解決するさと、確信めいたものがうちに生まれているからだろう。

ただし、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」は後から実感できる言葉であって、その只中にいる間は、「こんな会社、辞めてやるぅ~」と、毎日思っていた。
辞めなかった理由は単純で、収入が途絶えると家族を食わせられなくなるからに過ぎない。

生活のため仕方なくやる、稼ぎたいから自ら残業する。
動機がどちらであっても、体力気力にあふれる若いうちのみ可能な働き方なわけで、このムチャを経験せずに齢を重ねれば、それだけ国民は平準化され、国としてのダイナミズムを失うことになる。
そうした環境の中、貪欲なまでに稼ごうとする外国人が流入してくれば、10年20年後に社会を動かす影響力をつけるのは、彼らの側になっているだろう。

知り合いの美容師さんに聞いたことがあるが、かつて新人さんの本番は、仕事が終わってからだったという。指先を使う職人さんの世界だから、言葉で聞くより実際に動き、身体に覚え込ませていくしかない。
マネキンの髪を相手に夜遅くまで習得していく時間に残業手当がつかなくても、文句を言う社員はいなかったという。
やればやるほど技術が向上する、それ即ち自分のためだから、「やらされる」のではなく「やらせてもらう」姿勢だったわけだ。

いつのころからか、雇用者が指示するのだからそれは業務の一つであり、残業にあたると主張する世代が現れ始めた。
雇用者がその分の残業代を負担できず、社員がいつも定時に帰れば、当然のこと技術は向上しないままになる。

「時代が違いますからねぇ」と彼女はぼやいていたが、人間の思考が変わっただけで、人間そのものの本質は変わらない。
過保護に育てられた子供は、外からの刺激に抵抗力がない。学校も職場も過保護な環境に置かれたら、切羽詰まった社会の変化には対応できなくなるだろう。

裕福な家庭に生まれ、過保護に育てられた世代が、行政や経済の上層を占めてしまった気がする。彼らは、確立し硬直した社会のシステムに沿って生きていけば不自由しないので、無理して今を変えようなどとはなから考えない。
その行きつく先が、本日施行の「働き方改革関連法に基づく時間外労働(残業)の上限規制」だろう。

建設、医療、流通と、社会を形成する大切なインフラに多大な影響が出ることは必至である。
定時になれば手術の途中でも、医者は患者を放置し帰宅するのか。
渋滞にはまったトラックドライバーは、車両を放置して「また明日きます」で済ませられるのか。
今でさえ工期中の完成は不可能とされる大阪の万博会場を、現場の人たちの残業なしにどう実現するのか。

異常極まりない国家統制の末、大混乱が生まれる。
予言などと大げさなものではない。普通に考えれば、誰でもわかることだ。
なぜかこの法に関わる人間だけが、その道理をわからずにいるのである。

イラスト hanami|ω・)و

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