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山間にさす月の光

今月22日、娘が入籍するという。記念にその日の二人を、カメラに収めてほしいそうだ。たぶんその前々日あたりから、愛知に向かうつもりでいる。

お相手のドラマー君(えっ、ワシの義理の息子になるんかい)はかなり年齢が上だが、同い年で一緒になった息子夫婦同様、いつ会っても二人で手をつないだり身体を寄せ合ったりと、イチャイチャが止まらない。
僕からすると、こういう恋人然とした「二人の世界」がいつまでも収まらずいることが不可解で、正直言ってキモい。
彼らに心底、そういう想いがあるからなのか。それとも心の奥底によどむ不安のようなものがあって、過度な愛情表現をし続けずにいられないからなのか。
様子から判断するに、おそらく前者なんだろう。う~ん、オレの方がおかしいんか?

前回行ったのは、昨年7月の中旬だった。
一泊した翌日、お昼をご馳走してもらうことになり、場所は覚えていないが山の中腹にポツンと建つ評判のそば屋に、車で連れて行ってもらった。

駐車場からの眺望は素晴らしく、灼熱地獄の下界に比べ気温も何℃か確実に低い。なにしろ違うのは、つい深呼吸したくなる清浄な山の空気だ。こういうところで食う蕎麦そばなら、さぞや旨かろうて。
しかし、店の人は毎日ここまで通っているのか。蕎麦の専門店で中もこじんまりしているし、運ぶ食材は限られているにしても、日課にするのは大変だろうな。

厨房のご主人と接客の奥さん、二人で店を切り盛りしている。先客が食事を済ませ、片づけた後でないと入店できない。予約表に名前を書いたら、外のベンチで呼ばれるまで待つことになる。鳥のさえずりなど聴こえてきて、いい気分だ。時間が心持こころもち、ゆったり流れていく。

順番が来て中に入ると、小さな音量でピアノが鳴っている。このタッチなら、すぐにわかる。ビル・エヴァンスのソロだ。
有線なのか、お店の人の好みなのか。エヴァンスは1曲で終わらず、続けて流れていく。
なんのアルバムか解ったぞ。『Moon Beams』だ。
エヴァンスにとってかけがえのないベーシストだったスコット・ラファロの死後、最初に録音したトリオ・アルバムになる。
このバラードアルバムははかなげで、ややもすれば散文的にさえ響く。押しつけがましさは皆無で、食事の邪魔は一切しない。逆に聴き込めば聴き込むほどに味わいの深まる、ジャズ好きには珠玉しゅぎょくの一枚だ。
失礼ながらド田舎の、しかも蕎麦の専門店でこの音楽が聴けるとは思わなかった。人生、油断できないもんである。

天ぷらそばのセットが運ばれてくる。
思わぬ『Moon Beams』との邂逅かいこうに、内心ないしんで狂喜しているのは僕くらいだ。妻も娘たちも、しなやかな食感と小気味のいいのどごしの蕎麦を、ひたすら堪能している。
めんつゆが、またいい。蕎麦の香の強さに負けず、しっかり取られたかつおだしにほんのちょっと浸けて食せば、麺の味が一層引き立つ。カラッと揚げたての野菜天ぷらも、申し分ない。

それにしても音のほかに、エヴァンスの気配がどこにもない。たまたまこのアルバムが有線でかかっているとは思えないし、好きな人ならどこかに写真の一葉いちよう、飾っていたりしないものだろうか。

食事を終え、店を出る前にトイレに立つと、その手前の棚にひっそりとエヴァンスがいた。
小さな額縁に、意識しないでいれば見過ごしてしまうモノトーンの影に包まれ、孤独なピアニストに相応ふさわしい目立たなさで飾られている。

娘たちが会計を済ます脇から、店の奥さんに「ビル・エヴァンス、聴くんですね」と声をかける。
「私はよく知らないんですよ。主人が好きなんです。ときどき(店が閉まったあとの)夜に、知り合いの人と鑑賞会をしたりしています」
それを聞いて思わず厨房の奥に声をかけたくなったが、お客を待たせているせわしない時間帯に、それは遠慮すべきだろう。またの機会に、楽しみはとっておこう。

にしても、エヴァンスかぁ。
沼にはまらぬよう注意しながら、一曲だけ明日とりあげてみようかな。

イラスト hanami🛸|ω・)و



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