現場の自衛官が見た福島第1原発事故(加筆Ver.)
目 次
はじめに
1 超巨大地震
2 出 動
3 3号機の水素爆発
4 恐怖の移動
5 地上放水冷却活動
6 出 撃
おわりに
はじめに
2011年3月11日、けしてあの日は忘れない。
そして、3月20日、福島第1原発へと向かった。
16年前のちょうど同じ日の3月20日、地下鉄サリン事件で、除染作業に従事したときの恐怖がよみがえった。
これは、運命なのかも知れない。
それが、使命だと気づいた。
1 超巨大地震
ピピッ、ピピッ、ピピッ、ピーー。
放射線量計測器の警報音が高鳴る。
「自分は今、戦場の真只中にいる」
今から13年前。
私の机がカタカタと揺れだす。
「ん?地震か?」やがて机の引き出しが飛び出すほどの揺れがくる。
「大きい、皆〜外に出ろ〜」と隊本部で事務机にしがみついている隊員達へ促す。
慌てて階段を降り隊舎の外へ出る。
2011年3月11日(金)14時46分、後に言う「東日本大震災」だ。
当時、私は大宮駐屯地の中央特殊武器防護隊(以下、中特防)所属の第102特殊武器防護隊(以下、102隊)の副隊長であった。
揺れは収まるどころかますます激しくなる。大型トラックが倒れそうだ。
しばらくして揺れが収まるのを待って私は「震源が遠かったら震源地はとんでもない事になっているぞ」「直に指揮所を立ち上げ、情報収集」と命じた。
落ち着くと各小隊長に隊員家族等の安否確認をするよう命じ、私は今後の対応を検討するため隊長室ヘ入った。
テレビニュースでは、大津波警報が発令されている。
実際に津波が到達している。
仙台空港や岩沼地域が津波で押し流されている映像が映っていた。
私は2年前にCRFHQ(中央即応集団司令部)で勤務していた時の事を思い出し、背筋が寒くなった。
その頃ハイチ大地震があり、国際緊急援助隊の資材をアントノフ輸送機で運ぶため、仙台空港で約1ヶ月間滞在し空輸業務にあたったこともあった。
こんなに海が近いとは思ってもみなかった。
私も自宅へ電話をかける。何度も電話するが中々繋がらない。
やっとのことで繋がると、娘が小学校から帰され、一人で家に残されていた。
「パバ早く帰って来て」と泣きながら話す。
「ごめんね、パバ帰れなくなったの」
余震は続いていたので、閉じ込められないように窓を少し開けておくように言って電話を切った。
テレビニュースで東北地方の津波の状況を確認する。
「これは極めて深刻な状況だ」中特防も102隊も派遣準備に入る。
102隊長は中特防本部の作戦室から出て来ない。
今後の対策を検討しているのであろうが、この混乱の中、災害派遣は間違いないのだが、上級部隊からの任務が決まらないようだ。
一夜明け、被害状況が次々に明らかになってくる。
福島第1原発も被害を受けている。
「派遣は、原子力災害派遣か」と思う。
2 出 動
102隊は、原子力災害派遣に必要な資材を車両へ積載し出動準備を整える。
出発前に隊長からの訓示を受ける。これから先は、何が起こるかわからない。
引導を渡された気持ちだが、必ず生きて帰って来ると心に誓う。
そして、大宮駐屯地を出発したのは、3月13日(日)の夜であった。
102隊は、東北道を北上する。
高速道路は、既に規制されており、どこが破損しているのかわからない。
そのため高速道路は、50km規制となっていた。
昨夜も殆ど寝ていない。
まったく短調な高速道路をゆっくり走るのは睡魔との戦いだ。
無事に部隊を福島まで辿り着かせなくてはならない。
東北道から常磐道ヘ入り、四倉のSAへ辿り着いた時には、既に夜は明けていた。
部隊はそこで、大休止(食事休憩)をとることとした。
私も少し休もうと思った。
が、私は102隊長から呼ばれ「宮澤、中特防長(岩熊真司1等陸佐)と一緒に、現地対策本部へ行ってくれるか」と言われた。
現地対策本部は、大熊町のオフサイトセンター内に設置されている。
そして私は、引続きオフサイトセンターを目指し車を走らせることとなる。
オフサイトセンターへの道のりは、道路に亀裂が入っていたり、50cm位の段差があったり、まさに軍用車両でなければ走れない道だ。
車内には私と岩熊隊長、操縦手の他、中央即応集団司令部の連絡幹部が同乗していた。
電話は全く繋がらない。
唯一、連絡幹部が持たされていた衛生電話だけが使えた。
私達が、オフサイトセンターへ到着すると、そこでは既に対策会議が行われていた。
岩熊隊長は私に、四倉SAから本隊を連れて来て欲しい。
その際、どの道が通れるか経路偵察もして欲しいと言われた。
私は、高速は通れる。
国道6号を走る。
すると道は途中でバッサリと寸断され先へ行くことが出来ない。
山側の県道へ入るが、軽自動車が通れるかどうかで、自衛隊の大型車両が通るには無理だ。
結局、道は悪いが高速道路しか通れないと判断し、四倉SAへ戻った。
四倉SAでは、102隊長や幹部達が私の帰りを待っていた。
私は彼らに状況を説明し、私の車両が通った後に続いて来るよう指示した。
そうでなければ高速道路も荒廃しており通れないのだ。
そして部隊は数珠繋がりになり、高速道路の上り線、下り線へと移動しながら進んだ。
高速道を降り一般道へ入る。
そして部隊は、大熊町役場付近の公民館へ集結した。
私は、部隊の到着を知らせるためオフサイトセンターへと向かった。
当時センター内の現地対策本部では、岩熊隊長を含め、関係者が集まり対策を協議中であった。
3 3号機の水素爆発
協議の結果、第1原発3号機への給水を優先することが決まった。
中特防長岩熊隊長を中心に、隊長車、5t水タンク車2両で突撃隊が編成される。
そして福島第1原発へと向う。
私達、102隊主力は、除染所を開設するための場所を探した。
するとオフサイトセンター裏に医務室のような施設があった。
その施設内に除染所を開設することとした。
私達が除染所の開設をしていると。
「ドーン!」
外から大きな爆発音が聞こえた。
私は慌てて外へ出る。
すると、オフサイトセンターから「窓を閉めろー」と叫ぶ声が聞こえる。
3月14日(月)、福島第1原発3号機の水素爆発である。
ここオフサイトセンターは、福島第1原発から直線距離にして約3km程離れている。
3号機に給水に行った隊長達は大丈夫だろうか。
連絡がつかない。
悪い予感は当ってしまう。
隊長車、水タンク車ともに大破。
爆風で吹き飛んだコンクリート辺が空から降ってくる。
隊長車の操縦手は、太腿に瓦礫が刺さり大怪我
水タンク車の乗員は、落ちて来たコンクリート片で頚椎を損傷した。
まさに命がけだ。
やっとのおもいで彼らは除染所ヘ辿り着く。
皆、高い放射線を浴びているため、彼らを除染所で何度も洗うが、測定する放射線レベルは下がらない。
隊長車の操縦手は、太腿から流血している。
私は言った「オフサイトセンターに医者が居るはずだ、誰か呼んで来い」
呼ばれて駆け付けた医師は女性だった。
まさに戦場のような光景
私は、救護処置に使えるものはないかと、地震でめちゃくちゃになった部屋から、包帯やガーゼなどを探し出し、救護場所へ持っていった。
隊長車の操縦手は応急手当を終えたが、内部被曝の可能性が否定出来なかったため、そのままヘリで千葉県の放医研まで運んだ。
水タンク車の乗員は、頚椎損傷のため、救急車で一般病院へ運ばれた。
ドタバタしながら長い1日が終わる。
4 恐怖の移動
その夜、私達は公民館の2階で泊まる準備をしていた。
「やっと休める〜」と思ったのもつかの間
「全員集まれ~」
「隊は、直ちにここを出て郡山駐屯地へ向う」
「急げ~」
ただならぬ雰囲気に皆、半ばパニック状態となり慌てて動き出す。
私が聞いたところ、どうやら2号機が相当危険な状態いらしい。
大爆発すればここも大量の放射性物質で汚染され被曝する。
私も、荷物をまとめて自分の車両へと向かった。
私の車両では、すでに同乗する隊員が待っていた。
「副隊長早く出発しましょう」
「まあ待て」
「取り敢えず化学防護依に着替えて、防護マスクを準備しろ」
「それから出発だ」
2号機はまだ爆発していない。
防護装備品を着けていれば、最悪内部被曝だけは避けられると考えたからだ。
各車両、我先にと走り出す。
私の車両も、どこをどう走って来たかわからない状態で、やっと郡山駐屯地まで辿り着く。
部隊はバラバラ、隊を掌握したがどこへ行けばよいのかわからない。
郡山駐屯地でも、突然なことで受け入れ態勢など出来ている訳がないのだ。
私達は、車両をグランドへ止め、駐屯地隊員食堂の床に寝た。
しかし数分おきに訪れる余震に眠りは浅い。
翌日、大熊町のオフサイトセンター現地対策本部の機能が、福島県庁へと移転した。
5 地上放水冷却活動
私が、Jビレッジへ行けと命ぜられたのは、3月18日(金)の事である。
内容は、4号機への放水任務だ。
私は突撃隊員を招集する(志願)。
私を含めて4名だ。
3月19日(土)、私と隊員は化学防護車2両でJビレッジへと向う。
Jビレッジへ到着すると、建物の一画が現地調整所、兼自衛隊指揮所となっていた。
最初の任務は4号機の偵察である。
3号機は東京消防庁のハイパーレスキュー隊が担当し、自衛隊は、4号機を担当する。
そのため事後の特殊消防車での放水が出来るのか、現場を確認する必要があり、化学防護車で4号機へと向う。
私達は東電の先導車に誘導され福島第1原発へと向った。
ただでさえ狭い化学防護車の車内、多くの測定器材等が積まれ身動きが取れない。
福島第1原発に近づくにつれ、線量計の値は上がり、警報音も早くなる。
緊張と不安で呼吸は激しく、防護マスクが肌に貼り付く。
息苦しい。
やはり怖い。
自分が落ち着かなくては、と化学防護車の小さな窓から流れる景色を眺めながらそう思った。
そんな緊張の中、第1原発へ到着した。
不気味にそびえる4号機の前で停止する。
「偵察開始」私は、もう1両の化学防護車へ、無線で指示を出す。
東電の社員が車から降りて、ここですとマスク越しに指を差す。
私は「わかりました、危険ですからもう車の中へ避難下さい」と車両の拡声器で伝える。
線量計の警報音が一段と早くなる。
4号機の側壁には爆発で空いたであろう、大きな穴があった。
「あそこからなら冷却プールへ水を入れられそうだ」「ただし、下の瓦礫をどかさないと特殊消防車が近付けない」
私達は、3号機の前付近まで偵察し、急ぎJビレッジへ戻り報告した。
その夜、調整会議が行われた。
陸自の特殊消防車5両、空自の特殊消防車5両と東電が米軍から借受た消防車1両、そして私達の化学防護車2両で先導する。
総勢13両だ。
「お前が隊長だ!」といきなり言われ、私は、慌てて陸上自衛隊の放水隊長と航空自衛隊の放水隊長とを呼び、作戦会議を開く。
これは、陸海空の統合作戦なのだ。
作戦会議及び戦闘予行では、地上放水冷却作業の実施要領を確認し「明日SP(発進点)通過0600」と決定して解散した。
6 出 撃
「もう0時になる」
「今日は、3月20日、地下鉄サリン事件で出動した日と同じだ」またか、と何か運命的なものを感じる。
4時まで仮眠しようと思ったが、どこも通路は東電の関係者等が床に雑魚寝している。
「場所がない、困った」
「そうだ、階段の踊場がある」
私はそこで寝ることとした。
3月20日(日)午前4:00、私は起床し防護服に着替える。
3月の福島の朝はまだ寒い。
私は、地上放水冷却隊の車両を確認しながら先頭の化学防護車へ向った。
出発に先立ち40歳以下の者は医師からヨウ素剤が配られた。
甲状腺癌防止のためだ。
私は、化学防護車へ乗り込みSP(発進点)へ向かう。
だが、出発直前にトラブルが発生し、本部からの指示で7時00分出発と変更になった。
そして隊は、1時間遅れて、総勢13両を連ねて福島第1原発へと向った。
福島第1原発へ到着すると、化学防護車1両を、4号機の前へ配備させ。
私の化学防護車を進入路手前の高台で停車させる。
ここで特殊消防車を統制し、1両づつ進入させ放水させるのだ。
また放水中の放射線量の変化を測定し無線で本部へ報告する。
「放水開始」
記憶が曖昧だが8時20分頃だったと思う。1両目の特殊消防車が、原子炉建屋に向かい、ゆっくりと降りてゆく。
放水が始まると、原子炉建屋の中は相当高温なのであろう、大量の水蒸気が立ち上がる。
そのたびに、線量計の数値は一時的だが1,000mmSVを超える。
これを11両分繰り返す。
私は、緊張しながらも各車両へ指示を出す。
そして、進捗状況を本部へ報告をする。
最後に東電の消防車の放水が終わり、私は全員の無事を確認すると、速やかにJビレッジへと戻る。
放射線防護の3原則(時間、距離、遮蔽)の時間だ。
放射線強度の強い所に長い時間居れば、それだけ被曝線量は増えるからだ。
それでも大型車両の動きは鈍重だ。
先頭車両がJビレッジに着く。
私の化学防護車へ本部から無線が入る。
「隊長、戻って来た車両に給水をさせてくれ」私の車両は最後尾、まだ帰路の途中であった「誰か代わりにさせてもらえないだろうか!」語気が強まる。
私は疲れていたのだ。
やっとの思いでJビレッジへ辿り着く。
疲労困憊し、車両から降り、総重量20kgの防護服を着たまま、ふらふらとスクリーニング位置まで向う。
私は防護服を脱ぎ捨て、スクリーニングを受ける。
防護はしていたとはいえ、この2日間で一般の人が1年間に浴びる自然放射線量の20年分を浴びてしまった。
だが自分たちこそが国民の最後の砦、自衛官であるいじょう逃げるわけにはいかないし、文字通り命に代えても責務を果たす思いだった。
私は着替えて、現地調整所の自衛隊本部へ向い、任務完了報告をする。
現地調整所の自衛隊指揮所では、中央即応集団司令部の副司令官以下がおられた。
私は労いの言葉をかけてもらったが、本当に労うのは、爆発の危険もある中、命がけで私と伴に行ってくれた地上放水冷却隊の彼らだ。
この国と国民の生命を守るために、命がけで戦っていた自衛官達がいたことを、皆さん忘れないでほしい。
その後、私は南相馬市の馬事公苑内に、除染所を開設し災害派遣活動を続けていくこととなる。
おわりに
多くの方々がお亡くなりになる未曾有の大災害でした。
心より御冥福をお祈りします。
また、1日も早い日常への復帰を願っております。
この体験談が、今後の危機管理のお役に立てれば幸いです。
ありがとうございました。
著 者 宮澤重夫
平成30年に陸上自衛隊化学学校
化学教導隊副隊長を最後に退官
現役時代に体験した、地下鉄サリン事件や福島第1原発事故対処等の経験談を執筆中
主な資格等
防 災 士
第2種放射線取扱主任者
JKC愛犬検定最上級
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