見出し画像

ロシア人を支配する精神 -ドストエフスキーが戦争で果たす役割         

8,844 文字
「素朴なロシア人」という言葉は、歴史的な無知と無理解からではなく、精神的防御手段反応、つまり事実から目を背ける結果として使われていると確信しています。このような言葉は、平和を支持するはずの「善良なロシア人」が「ロシア軍を自慢する態度」を見ても見なかったことにしているのです。ロシア文化とその本質について議論するには、今持っているロシアに対する認識を正確に改める必要があります。

 そもそも、ロシア人とロシア文化がウクライナで排斥されたという主張ですが、ホロドモールや粛清、腐敗に満ちた親ロシア政府に対する抵抗運動などがあったので、ウクライナ人をロシア化することなどできるはずがないことでした。ウクライナに入植してきたロシア人ですら、そのほとんどが進んでウクライナ人化してきました。少なくともロシアの影響力から脱しなければならないという事は、ウクライナ人にとって、ヒューマニズムの観点から明らかであり、歴史から嫌というほど学んできたことなのです。
 ウクライナは経済的な繁栄を求めてEU加盟を目指しているという人々もいますが、それは明らかな間違いです。どのような経済的繁栄も、自由と民主主義の上になければ価値はなく、自由と民主主義によってしかヒューマニズムは保てません。ロシア化の圧力は、ホロコーストよりもっと昔からずっと続いてきました。しかし、誤解を恐れず言わせてもらえば、ウクライナ人の意思はロシア国家に対して改革を求めようとするものではなかった。少なくともこの戦争の前までは。
 しかし、ウクライナにおいてウクライナ人の態度は明確になった。はっきり言って、ウクライナには、もうロシアのプロパガンダは必要ありません。

戦争正当化のテーマ

 とはいえ、そのプロパガンダについては説明が必要でしょう。ロシアのプロパガンダに一貫性はありませんが、 いくつかの「テーマ」はありました。このテーマはロシアの政府予算で作られた愛国映画から大衆的な「不滅の名作」まで、共通して存在し、そして、それらのテーマこそがロシアの戦争を正当化してきました。テーマのリストには次のようなものがあります。

・キーウに起源をもつロシア千年の歴史に対する排他的権利
・ロシアの歴史的使命
・ロシアに適用される「独自のルール」とロシアに許された「独自の方法」
・旧約聖書によって聖的に定められた支配
・西欧的価値観を嫌悪しながらも、その利益を利用できるという支離滅裂な価値観

 これらのテーマはロシアの文化のあちこちに存在し、あまりにも多すぎるし一般的であり、フィクションのためのアイデアとして片づけることは困難です。つまり、それらは単なるフィクションではなく、ロシア人たちに普遍に存在するアイデアだからこそ作品に登場しているということです。もちろん、 ロシアで人気の士官学校生徒たちの青春テレビドラマなど、ロシアの全創作物が壮大な計画によって作られたなどと言うつもりはありません。そんなのはバカバカしい陰謀論です。しかし、多くの作品に登場するテーマ、アイデア、イメージの高頻度の一致は、ロシア社会の中の普遍的な共通認識の存在を意味しています。
 このロシア人達の普遍的な共通認識の存在は、イデオロギーを共有していることよりもはるかに強力な作用を持っています。共有するイデオロギーならば、時代の変化、状況の変化に応じて具現化の方策は変化します。そこに議論が生まれ、対立が生まれる可能性がああります。しかし、それに対して、普遍的な共通認識は議論の余地なく、議論を始める大前提として機能しているのです。

ロシアの映画やドラマ作品

 ロシアの映画製作者と広告会社、そしてときにはロシア国防省の宣伝担当者は、普遍的な共通認識に基づき、彼らにとって当たり前のものを作ります。そこで作られるものから、作られている環境を見て取ることができます。作品を通し、製作者たちの思想を読み取ることができます。ロシアの普遍的な共通認識に当てはまる映画ほど、広告会社、ロシア政府の宣伝担当者の理解を得られ、巨額の助成金を得ることができるからです。政府は「公式見解」に沿う映画にお金を使う傾向があります。そして、全体主義的なロシアの助成金制度は相乗作用を引き起こしています。助成金を得ることが成功するために不可欠の方法になり、助成金を得られる作品作りが制作陣に奨励されているのです。

 1960年代半ばから1980年代初頭にかけてのアメリカ映画史のムーブメント、アメリカン・ニューシネマ時代の作品群は反戦感情、そしてポスト・アメリカン・ドリームに対する懐疑的な冷めた視線がありました。それが当時の米国人の普遍的な共通認識であり、それが何千もの映画作品に顕れています。それに対し、現代ロシア映画作品では、いくつかの「赤い旗」をロシア人の普遍的な共通認識として見つけることができます。

  一つは、軍隊に対する熱狂的支持、つまり軍隊カルトです。軍隊カルトはソビエト時代から続くロシアの伝統的なプロパガンダ・テーマです。ノスタルジックなソ連軍の制服への熱狂的崇拝を煽る作品は今でも健在です。 「Солдат(兵士)」 、 「Кадетство(士官候補生)」「Стажёры (訓練生)」などの大人気ミリタリー・ドラマ作品やミリタリー映画は、ロシア軍への尊敬と憧れを形作るのに寄与しています。

 それらの作品の中では、人生の究極の目標は軍人として活躍する事だとされ、男性であるなら軍人として活躍しなければならない、男になるためには一度は戦地に向かわなければならないという価値観が提唱され、自衛戦争などしたことがないロシア人を隣国を攻撃するロシア人へと駆り立てます。これこそ、軍隊ファシズムです。
 ロシア映画やテレビシリーズは、西洋の傾向を取り入れながらも、主にソビエト時代を恋しがる人々にアピールする、古風でノスタルジックな作品を多く制作しています。

ロシア化とは

 ロシアの文化的世界から自由になろうとする試みは、激しく弾圧されてきました。ロシアは常にその言語と文化を押し付け、ウクライナ人がウクライナ人らしくありたいとする試みは、「ナチス化」であるとして弾圧されてきました。

 問題は、ロシア人はウクライナ文学、映画、その他の表現を理解しようとさえしないということです。そのため、ウクライナ人がロシア人を理解してこなければなりませんでした。これは、現代の人文科学者であれば誰もが認める、植民地支配国と被植民地国の力関係です。この力関係が存在することだけで、ロシアのプロパガンダを拒否する理由として十分なはずです。
 
 ロシア人はウクライナ人に対する偏見を持っています。おっとりしていて騙されやすい、愚かだがあざとい女性のイメージです。ロシアの軍隊もののテレビドラマを見れば、該当するキャラクターは簡単に見つけることができます。不器用で友好的な「ウクライナ」系ロシア兵士または訓練生の登場が許されるのは、一作品で一人(場合によっては一家族)のみです。これがロシアの植民地主義における多文化共存の構造です。ロシア人はよく分かっています。

 米国テレビドラマ「The Nanny」のロシア版「My Wonderful Nanny」シリーズでは、モスクワに住む、マリウポリ出身のウクライナ人の少女スターレットは、「ロシア世界」の一員であると感じます。しかし、現実世界では、ロシア軍はマリウポリを爆撃し、マリウポリの人々を飢えさせています。そして、長い間、マリウポリは降伏を拒否していました。これは、ロシアの欺瞞に満ちた寛容性の演出であり、マペットを使った自己弁護のささやかな一例です。植民地支配者たちの期待に反する行動は暴力的に弾圧されます。この場合、被植民地の人間は「人」ではなく「あるべき兄弟の絆を破壊する敵」と言われます。それがロシアの外交手法なのです。

脱ロシア化

 「無視していればそのうちロシアも諦めるはず」と言って脱ロシア化を否定する人もいます。しかし、そのような人にはベラルーシの詩人で翻訳者のアントン・ブリルの言葉をもって答えます。
「西側の一部の人が『偉大なロシア文化』と何もかもごちゃまぜにしている認識は、ビクトリア朝オリエンタリズム的認識の最後の事例として認識されるべきです」
 ビクトリア朝オリエンタリズムとは、欧州文化からアジア圏の文化まで、世界中に多数の植民地を有していたビクトリア朝時代の大英帝国の文化を意味する言葉であり、東西に8, 900キロ、約190の民族が存在する「ロシア文化」とまさに同じものです。何か意味しているようではあっても、その言葉は正しい具体的イメージを想起させるには何も役立ちません。
 この言葉こそ、問題を正確に捉えていると思います。西側はロシア文化の文脈についてほんのわずかしか理解しておらず、そのわずかの部分でさえ、ほとんどがソビエトに影響されたスラブ研究の結果、つまりプロパガンダの産物でしかないということです。

民族差別

 ロシア文化においてウクライナ人に愚か者の役割を与えられましたが、それでも私たちはまだ幸運でした。ただの嘲笑の対象でしたが、それでもウクライナ人はロシア文化に存在を許されたのです。ロシア連邦に組み込まれた100以上の無国籍民族グループには、それすらも贅沢でした。軍隊カルトを広めるロシアの大衆文化は、人種差別主義なのです。ウクライナを攻撃した多くの占領者は非スラブ民族グループに属していますが、ロシアの軍隊ドラマにも映画にもトルコ人、シナチベット人、または北シベリアの先住民は登場すら許されませんでした。

 それは暗黙の民族差別であり、これについては長年西側諸国がロシアを放置していたことにいくらかの責任があります。ヨーロッパは、ウクライナを「ヨーロッパの一部」であるという理由で助けてくれますが、救われるべきはウクライナ人だけではないのです。
 これまで、ロシアは意図的に西欧文化から距離を置いていました。ロシア政府は多民族問題を無視はせず、むしろ、内政問題の煙幕として多民族問題を利用してきました。ロシア政府は貧しい多くの少数民族を支援しているというストーリーです。西側から問題として認知されないのは、何百もの異なる民族が差別システムの牢獄に囚われているからです。彼らの声が聞こえなくても、それが一般的な「ロシア人」のイメージと矛盾しないため、無視される傾向がありました。

ロシアの文学作品

 ロシア文化自体は、現在の戦争をしておらず、罪はありません。ハリコフを爆撃したことでロシアの文学作品や音楽家たちを非難するの馬鹿げています。しかし、その文化がロシアのイデオロギー構成物の中で際立った役割を果たしていることは理解しなければなりません。 「作者が何を伝えたかったのか」に関係なく、ロシアの古典文化は、ロシアのファシストに利用され続けてきました。
 したがって、「政治と文化は別だ」と話す前に、「敵はプーシキンではなくプーチンだ」と結論づける前に、民間人の殺害を承認するイデオロギーの正当化にプーシキンの作品がどのように機能しているかを理解する必要があります。これを理解することは、適切な教育を受け、民主主義の理想とヒューマニズムを尊重するすべての人の知的責任であると思います。

「罪と罰」

 最も代表的な二つの作品を紹介します。私の考えでは、この二作品は、ロシア人たちが求める「神秘的なロシアの魂」と呼ばれる「ロシア人のありかた」を完全に表現しています。それはドストエフスキーの「罪と罰」とロシア映画基金が製作した「バイキング」です。ドストエフスキーは、言うまでもなく、ロシア文学の顔の1つです。ロシア人は学校の授業で一般的な解釈を学び、その解釈があらゆる文学部でコピー&ペーストされます。しかし、ほとんどの場合、西欧においてはロシア研究者の解釈に基づいて再解釈されています。
 
 「罪と罰」の解釈を簡略化すると「人間がどこまでも堕落しうる様を描きつつ、その堕落の中に深い心理描写の機会を見出し、普段は見過ごしがちな人間性を探っている」ということになります。このような解釈が、ロシアの学校で習う標準的な考え方であり、大学でも多少洗練されていきますが、同じような理解が一般的です。ソ連時代はすべてのカリキュラムが、同じシナリオに従うことになっていたので不思議なことではありません。

 これはどういう事でしょうか?西側に暮らす人たちにとって、解釈は自由です。しかし、ロシアでは解釈は教えられ、身につけるものなのです。そうです。そこには教える側の、意図的な心理操作が働きがあります。そして、そこには体制側の、原始的なポジショントークがあります。
 ロシア人は厳格な道徳の枠組みの中で生きている。ロシア人は最悪の状態になるほど、より最悪の行為を働いても、人間らしくなることができる。そのような確立した解釈を与えているのです。

 ロシア人に関するこの説明は、直感的な理解を促すと思いますが、人によっては不誠実な意見にも聞こえるかもしれません。人間らしくモラルを持って生きる人が、より最悪な状態になっていくこと、もっと悪い行為を行うことを受け入れるだろうか、と疑問を感じるからです。

 しかし、ドストエフスキーの作品を文字通りのグロテスクなあらゆる社会悪を誇張し、嘲笑した冷笑作品として読んでみれば、かならず納得できるでしょう。「白痴」は 「罪と罰」を理解するための鍵になります。「白痴」は信念を持ち、自分なりの価値観を大事にする男の物語です。自分なりの価値観を持った男がロシアの「一般社会」に出るが、ロシア社会は抗いようのない力でその男を押しつぶすのです。ロシアはもともと強権的な国であり、個人の意思は何の影響力も生じないのです。
 
 ドストエフスキーの日記は私の意見を補強します。「ロシア人の最も根本的な問題は、永遠に揺るぎなく、いつもどこでも苦しむ必要があることだ」と。この見方を受け入れると、ロシア人に対する理解の次元が変わります。彼らは普通の人々であり、彼らを認識するのは簡単になります。彼らが置かれている地獄のような状況は、彼ら自身が行動し選択し、それによって作り出され、永続しているのです。しかも、私たちがロシア人に出口を与えるということすらできないのです。

 ドストエフスキーは、私たちを困惑させます。ドストエフスキーの示すところは、犯罪の背景にも人間性を認めることが重要である、というヘーゲル的な法哲学と矛盾するからです。ヘーゲル的な法哲学によれば、人間性は「道徳」の出発点となります。しかし、ドストエフスキーの作品においては、人間的な犯罪者はあらゆる犯罪を技術的に正当化できると主張しているのです。ウクライナでの戦争にまつわるロシア人たちの言説は、この解釈に十分すぎるほどの裏付けを与えるものではないでしょうか?
 

「バイキング」

 次に映画「バイキング」を見てみましょう。主人公、ウラジミール大王は、歴史上ロシアとウクライナの両方の「先祖」になる人物です。両国の歴史はキーウを中心に展開します。この千年、具体的に血統が続くわけではありません。中世の国家は多民族国家であり、地域間で互いにさまざまな影響を受けています。しかし、そんなニュアンスはロシア建国神話には関係ありません。

 ウラジミール大王の神話で重要な点は、それが再生の神話だということです。犯罪によって権力を得た残忍な異教徒であるウラジミールが、神の恩寵を得て、洗礼を受ける決心をする。中世の典型的な「野蛮な洗礼者」のイメージで、5世紀にゲルマン民族諸侯の中で最初に改宗しメロヴィング朝を建てた、クローヴィス1世のイメージとそれほど変わりません。ドイツとフランスはメロヴィング朝に起源を持つという歴史があっても、互いの存在を否定したりはしません。しかし、ウクライナとロシアの間では、このウラジミールは大きな問題になるのです。
 
 中世の資料では、ウラジーミルに関する記述は、東方正教会ではよくある伝記物語です。伝記物語では、主役の男性はイエスの生涯(幼少期からの神的召命)かパウロの生涯(成人後の召命・復活した罪人)のどちらかをなぞります。ウラジーミルは他の多くのゲルマン王と同様、後者です。ここで忘れてはならないのは、これは宗教文学であり、本質的に創作物であるということです。しかし、正教会と宗教教育を押し付けているロシアにおいては、この伝記物語を史実であり、道徳的な教訓として扱うものとなっています。この史実のもたらす道徳的教訓は、大衆文化の中でどのように反映されているのでしょうか?

 映画の中で、ウラジミールは野蛮な野人として登場します。彼は罪のない人々を殺し、女性を犯し、その他の残虐行為を行います。愛される支配者像とは到底思えません。しかし、神が彼に触れるやいなや、(映画では)彼は神と一体となるのです。
 歴史的には、イスラム教、ユダヤ教、カトリック、ギリシャ正教会の中から何を国教として選択するかが問題となり、「ウラジミール大王を現人神として認める」という立場をとったギリシャ正教会を選択したのです。正教会が為政者を神と認定した事実は、ロシアのイデオロギーにとって極めて重要な瞬間であり、西欧と「ロシア世界」の間の永遠の分裂になったと思います。
 そして、この神の恩寵が、ウラジミール個人に対する効果ではないことに注意しなければなりません。最悪な状況に神が登場し、全ての問題を解決する Grace ex Machina によって、ウラジミールの人間性が変わるようなことはなかったのです。ウラジミールが正しい神を選んだだけで、正しくなったとされただけなのです。この恩寵はウラジミール以外、誰にも何の救済ももたらしていません。それどころか、ウラジミールの全ての犯罪が業績として正当化されたのです。

 このように、この物語「バイキング」は、醜い人を良い人に変えるという精神的な変化として読めるものではありません。ウラジーミルにとって、善と悪は道徳的に差異の無いものだと示すだけです。すでに、この映画に最も即したセリフをプーチンは言いました。
「私たちは殉教者として天国に行くが、他の人たちはただ滅びるだけだ。」
 ロシア正教の観点からは、どんな罪でも赦しを保証する恩寵があるので、どんな行為であっても大きな成果なのです。ヨーロッパにおいては、このような宗教的政策は13世紀のアルビジョワ十字軍以来ではないでしょうか。

ドストエフスキー

 そして、ここでドストエフスキー作品の問題点に戻ります。彼は聖人伝分野に精通していて、その典型的な筋書きに沿って「罪と罰」を構成しました。「バイキング」が、プーチンが公然と示す、彼の理想的支配者の特殊な道徳をあらわしているのに対し、ドストエフスキーの「罪と罰」はロシア文学における古典的な「小人」と同じ状況を構成したのです。
 小人は暴力でしか自分を表現できません。ロシアの古典作品と同様に、彼は神の介入によってのみ救済されます。この世界は個人の善意が存在するにはあまりにも邪悪過ぎるように描かれます。そして、神の介入があっても、物事が良い方向に変わるわけでも、誰かの道徳的な再生をもたらすわけでも、人々に自責の念や個人の責任への感謝を強いるわけでもないのです。
 物語の中で、主人公が救済されたという実感を得ている瞬間、世界の状況は何ら変化しておらず、主人公にとって何も意味を持たないのです。主人公を取り巻く世界は呪われたままであり、それがデフォルトの状態なのです。神の祝福を受けた者はこの状態を受け入れる、というストーリーなのです。
 
 神の祝福というのは、ロシア文化においても、ロシアのイデオロギーにおいても必要なものです。宗教的には、非人間的で不道徳な行為の中にさえ、神の恩寵を見出すことができる能力ということです。悪を為す中に、その運命を与えた神を認めるという事です。この観点では、狂人こそ聖人であり、善が存在しないところでも善を見ることができる才能です。これがドストエフスキーの示す「謎めいたロシア人の精神」の人間性です。たとえ「神の恩寵」を求める信仰に篤いロシア人でも、彼にとって、闇、絶望、猥雑さ、暴力は問題にはなりません。この信仰は、世界を良い方向に変えたり、重大な問題を解決したりするものではなく、すべてを崇高な神の計画の一部として受忍する態度なのです。 

ロシアの兄弟愛

 繰り返しますが、ドストエフスキーやロシア文化そのものを排斥しようという意図はありません。しかし、明白な危険がそこには存在します。ロシア文化はプロパガンダの原動力として機能しています。その力は多くの場合、ファシスト的政策と侵略政策を正当化する方向に働いています。全体主義の中では、創作物は体制の下僕としてのみ存在を許されます。ロシア政府によって操られたロシア研究者を通じ、再解釈された何千もの作品については言うまでもありません。

 ロシアが第二次世界大戦で勝利したため、必要な見直しが行われないまま、20世紀のスラブ学が形成されました。しかし、ロシア文化をポスト植民地時代的に正しく見直さなければ、押し付けられた「兄弟愛」によって苦しむ声には気づくことすらできません。何百もの地域が植民地化、同化政策に苦しんでいるのです。このようなロシア文化に対する認識の修正なくして、ロシア文化を真剣に語ることは許されないのではないでしょうか。それはあらゆる学者や評論家の知的責任ではないでしょうか。
 (終わり)
本稿は https://t.co/IveFeQQcXy を再解釈して構成しました。

最後まで読んでいただいてありがとうございます😊
どうか「スキ」「ツイート」「シェア」をお願いします!
できましたら、感想をコメントで一言いただけると、ものすごく励みになります😣!😣!

サポートしようと思って下さった方、お気持ち本当にありがとうございます😣! お時間の許す限り、多くの記事を読んでいただければ幸いです😣