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この戦争は、どう始まったか -カチュージャンカ村(2)

4月12日 ウクライナメディア:(4,557 文字)

逃げようとした人々は撃たれた:ロシア人は、どのようにしてカチュージャンカ村を恐怖に陥れたか

キーウの北47kmに位置するカチュージャンカ村
この地域は本格的な戦争が始まってすぐにロシア軍に占領され、36日間、人々は占領生活を送っていた
「カディロフツィー」はここでビデオを撮影し、「もう一つの戦略的ポイントを占拠するために、ほとんど何も残っていない」と言った
このビデオの中には、チェチェン共和国のロスグバルディアの責任者シャリプ・デリムハノフを筆頭に30人の過激派がいることが確認されている
カチュージャンカ村を訪れ、誰がこの村を占領していたのか、「カディロフツィー」とロシア人や「ブリヤート人」の違いは何か、この数週間で経験したことを地元の人たちに尋ねました

キーウからカチュージャンカ村へ行くには、占領軍によって破壊されたブチャ、イルピン、ボロディャンカを通る道と、デミディウの臨時交差点を通る道があります
どちらの地域もロシア軍に占領されていたため、この村はウクライナ当局の支配地域から切り離されていたのです
4月1日、カチュージャンカ村はウクライナ軍によって解放された
1カ月半以上、電気も暖房もない生活が続き、携帯電話の通信も4月10日にようやく復旧しました
しかし、今のところ一日中使えるわけではありません
タワーは発電機で動いており、夕方8時ごろになると発電機は止まります

村の入り口にある廃屋、郊外にあるロシア軍の塹壕、掘り返された地元の学校の校庭などが、この村が占領下にあったことを思い出させます

そのすぐそばで、自転車に乗った3人の少年に出会いました
そのうち2人は村を離れることなく占領を生き延び、もう1人はカチュージャンカ村が解放されたときに戻ってきたそうです
占領中はパンに困ったが、村人たちは自分たちで作って焼いたといいます
今は、ボランティアや自治体がパンを村に運んでくれるので何の問題もありません

最初の 2週間は地下室で家族で過ごし、その後、人々は徐々に自宅に戻り始めたそうです
ロシア人が領土防衛軍の兵士を探して家々を回り、貴重品を奪っていくので、最初のうちは怖かったといいます
侵略者に協力した現地人もいました
その中には軍隊と関係があり、戦闘経験のある人がいたと報告されています

学校の敷地に地雷はないのか、サッカー場には使えるのか、と彼らに聞いてみました
意外なことに壊されていませんでした
春の寒い日にもかかわらず、地元の少年たちがそこでボールを追いかけていました

学校周辺は壕や塹壕で廃墟と化し、ロシア軍の存在を感じさせます

学校校舎はきれいに見えますが、壊れたドアや切断された錠前が、退去者の存在を示しています
地元の清掃員であるマリアさんは、「本当に汚くて、10日前からここを掃除しています」と話します

校庭にはゴミや土嚢が投げ込まれ、かつての整然とした花壇の代わりに、大きな盛土が出現しました
事務長室と校長室はロシア人にめちゃめちゃにされ、ほとんどすべてのオフィスがゴミ捨て場になり、汚れています
そして、この学校の地下では、キーウ州の様々な村から集められた捕虜を監禁し、拷問していたのです
学校に隣接する競技場はヘリポートにされていました
「大型輸送ヘリが1機、ミサイルを積んだヘリが2機、随伴して飛んできた」とマリアは言います

占領前の学校の風景1
占領前の学校の風景2

ロシア人は来てすぐ、家々を捜索して周りました
留守の家には扉を壊して入っています
「私の上の階では、アパートを借りていた女の子がどこかに行ってしまったので、ドアを桟と一緒に壊されました
バールやハンマーも持ってやってきましたが、アパートや家がひっくり返るようなことはせず、丁寧に対応してくれました
彼らは電話を取り上げようとしたのです」

カチュージャンカの多くの住民は通信手段を失なっていました
スマートフォンを取り上げられた人もいれば、ウクライナ軍に情報を送信できないようにSIMカードを抜き取られた人もいます
しかし、マリアがトイレのゴミ箱に隠した携帯電話は、占領者に見つからなかったそうです
おかげで、現在キーウで治療を受けている息子に電話をかけることができたといいます

カディロフツィー、ヨーロッパ系、ブリヤート

カチュージャンカのロシア人はいくつかのカテゴリーに分けられます
2月25日、最初に来た「カディロフツィー」との交渉は、まだ可能だったそうです
彼らはウクライナと戦っていることを親に知られたくないと言っていました

「ある男が言いました
『あなた方が私たちを助けてくれたことがあるから、今、私たちはあなた方を助けに来たのです』
私たちは聞きました
『どうやって助けるのですか?
誰から私たちを守るというのか?』
彼らは何も助けてくれなかった
そして、ある男が言いました
『とにかく、ここで私たちがウクライナと戦っていることは誰にも言わないでください
もし父が知ったら、私の首は羊のように切り落とされる』」

とはいえ、最初の数週間で、この村を「悪夢」に陥れたのは、その「カディロフツィー」たちでした
彼らは通り過ぎる車を無差別に撃ちました
その犠牲者の二人が、学校の裏に埋葬されました
遺体はもう移動されたようです

住民たちの話では、「カディロフツィー」よりも「ヨーロッパ系」ロシア人の方が手ごわかったといいます
彼らの話では、両者は敵対していたそうです
「俺たちはあなた達を気にかけているが、ロシア人たちが来たら、どうなるか分からない」とあちこちでカディロフツィ―が言っていたとマリアさんは言うのです

フォラ

また、地元の商店「フォラ」の近くでロシア兵同士の銃撃戦があったという話もあります
最終的にロシア人の1人がATMを襲い、約10万フリヴニャを持ち去っています

(グーグルマップではリニューアルされる前の「フォラ」の様子が見られた。リニューアルや道路の整備がされたばかりだったのだろう。)

しかし、あるロシア人SOBR隊員(ロスグバルディアの特殊部隊)のおかげで、学校の備品のいくつかは救出されました
地元住民のタティアナによると、占領初日にロシア人がデータ保存用のノートパソコンとプリンターを数台、持ってきてくれたといいます
村が解放された後、タティアナはそれらを学校に返しています

しかし、村人たちはブリヤート人が最悪だったと話します
ブリヤート人達の行動が最悪でした
強盗、略奪、脅迫、押し入っての不法占有
「彼らはチェチェン人とは違うという事を見せてやると言ってました
まるで、チェチェン人達がもっと良い人間みたいな振る舞いでした」
と村人の一人は言います

占領者たちは、地元のクラブに病院を設置し、学校の裏では死体を焼いて埋めていました
地元では、第二次世界大戦中も、ドイツ軍がこのクラブの敷地に死者を埋めたと言われています
「今では、ロシア人たちがそこを病院にしたのです
土の下から彼らが戻って来ないようにするために、そして、そこから彼らが戻って来ないかぎり、私たちの子どもたちはその上で踊ってきたし、これらもその上で踊るでしょう」と、カチュージャンカの住民の一人が言いました

もう一つ、ロシア人が拠点としていたのが、カチュージャンカ高等職業学校です
占領者が学校の寮に住み着いたのです
地元住民は地下に隠れていて、大変な日は40人くらいになったそうです

地元住民のイワンさんによると、「カディロフツィ―」は男性を地下室から連行し、フェンスの横に並ばせ、服を脱がせ、尋問したということです
また、「人道的支援」や食料を与えられる様子を演出するビデオも撮影されました
住民たちには断ることは不可能でした

近くでおばあさんがナタリア・フィリオンの「彼はブチャの男、彼女はイルピンの女」(注:ブチャ解放直後にリリースされた曲)を電話で聴いていました

この地下室で被占領生活を送ったニーナ・スタニスラヴィヴナさんです
2月24日は、子どもたちを学校から避難させるのが精いっぱいで、彼女に逃げる機会がなかったといいます
そのため、カチュージャンカの人たちは世界から孤立してしまったのです
「カディロフツィー」は主に道路のパトロールと秩序の遵守の監視に従事していたそうです
「彼らは私たちに譲歩してくれた、交渉することは可能だった
なぜなら、彼らは戦うためではなく、私たちを守るためにここに来たと言ったからです
誰から守るのか?息子から?
誰も私たちを攻撃していませんよ」とこの女性は言う

しかし、何よりもブリヤート人が来たときが一番怖かったという
「彼らは心を通わせることができませんでした
まるで動物のように制御不能で、私たちはすぐにそれが分かりました
彼らは何事にも容赦がありませんでした」
そうニーナ・スタニスラヴィヴナさんは振り返る

地元の人たちは、銃を突きつけられているときしか移動できなかったという
向かいの友人の家から、彼女の自宅に帰るのに数日かかったそうです
そして、3日目に彼女は言われたといいます
「おばあちゃん、歩き回らないでね。殺しちゃうから」

「子供が遊んでいる時も、銃を突きつけられていた
とても大変でした
引き金から指を離してください、子供が遊んでいるだけですと私は言ったんです
もし、その子が殺されたら、私はどうやって生きていけばいいんですか、と」
そう言いながら彼女は涙をぬぐいました
「子供が『わが父バンデラ』を歌うんです
心配で仕方なかった」

ブリヤート人はいつも酔っぱらっているので、誰もが彼らを恐れていました、と彼女は回想している
そして、村から逃げ出そうとした人は銃殺されました

別れ際にニーナ・スタニスラヴィヴナはある秘密を打ち明けてくれました
彼女の息子は軍人なのだそうです
しかし、近所の人たちは彼女のこの秘密を守り、彼女の家族のことは一言も言わなかったのです
「ご近所の人たちには、生き残らせてくれてありがとうという感謝の気持ちしかありません」
村から電話をかけれるようになり、まず娘に、次に息子に電話したという
その声を聞き、息子は泣いたそうです
彼は、母親が占領から生還できるかとても不安だったのです

カチュージャンカの学校の黒板に残されていたとされる、ロシア兵の落書き

(左側のメッセージ)
勉強頑張ってください
戦争が終わるとき、君たちは祖国(注:おそらく「ロシア」)を取り戻す
お互いに正々堂々と、困っている人には救いの手を差し伸べてください
私たちは、私たちの民族が友好的になることを望んでいます
あなた方は、医者、エンジニア、教師など、平和をもたらす人たちになるべきです
神があなた方と共にありますように
私たちは、あなたの学校を占拠してしまったことを申し訳なく思っています

(右側のメッセージ)
子供たち、私たちがこのような被害をもたらしたことを許してください
私たちはあなたの学校を救おうとしましたが、砲撃されたのです
平和に暮らそう、自分を守ろう、貴方の親や先祖が犯した過ちを繰り返さないように
ウクライナ人とロシア人は一つの民族です
兄弟、姉妹の皆さん、平和を祈ります

(終わり)


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