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この戦争は、どう始まったか -ヴィタリー(1)

6月22日 ハルキウ人権団体:(5,151 文字)

児童心理学者のヴィタリー・ステパネンコは、36 日間の被占領期間中、ボランティアとしてディメリフスカ病院を手伝いました
彼は、切断された手足も死んだ人々も、全て見ました

- 私の名前はヴィタリーです

私は 22 歳で、キーウ地方のヴィシュゴロディフカ地区のダイマー村に住んでいます。

児童心理学の仕事をしていて、教育心理学者です
映像制作の仕事もしています
ドネツク出身で、2017年、子供の頃に引っ越してきました
当時17歳だった私は、ドネツクにすべてを残し、学校にあった物や書類を集めて、ここに落ち着きました
避難施設所長のイリナ・サゾノワさんに迎えられました
彼女は私の面倒を見てくれました
そして私は一人でここにいます
両親は妹と一緒に避難施設に滞在しています

当時、私はドネツクから 35 キロ離れたところに住んでいました
マリインスキー地区のマクシミリアンフカ村です

そのとき、そこで戦争が起こりました
さあ、今から戦争だ、です
そして、今は第二波です
第一波はそのときで、ドネツクは非常に危険でした

学校は何も機能していませんでした
部活なし、授業なし
すべての工場、お金を稼ぐことができるすべての仕事
すべてが閉鎖されていました
アルコールやドラッグを購入できるショップやキオスクのみ営業していました
私はそれにうんざりし、何かを変える必要があることに気づきました
そして、私の母が外から帰って来て言ったのです
「キーウへの2週間のキャンプの無料チケットがあるよ」って、
それで、「行ってみたい」と私は言いました
そうして「フォレストガード」キャンプに行きました
ダイマーのすぐ近くで、とても気に入りました

フォレストガード:紛争地域(反テロ作戦地域)のウクライナの子供たちを保護する施設

家に帰って、1 週間後、第2回のキャンプに再び行きました
その後、家に帰って言ったんです
「お母さん、キーウに引っ越そう」
そう言いました
もし、母が行かなかったら、私は自分だけで行くと言うつもりでした
ドンバスには何も無かったのです
授業はありません
友達は皆、飲酒と薬物の使用を始めました
紛争地域までわずか 8 キロの場所です
マクシミリアンフカ村はDNRのいるマリインカ村から 8 キロしか離れておらず、常に戦闘が行われていました
私たちの庭も砲撃され、両親が何度か飛び出して来たことがあります
こんな巨大な穴ができていました
DNRは数回、ウクライナ軍を撃退し、私たちの庭まで来ました
彼らは私たちの庭で車を走らせ、榴弾砲を設置し、ウクライナ軍の陣地に向かって砲撃していました
2015年頃のことです

17年に引っ越し、18年に学校を卒業し、大学に入学しました
今はもう働いています

- ロシアの本格的な侵攻があると考えていましたか?

- はい、実は、あると思っていました
ただ、それが何時かは当てられなかったですね
3月末だと思っていたので、1ヶ月遅ければ当たってましたね

2月22日に名付け親を訪ねたとき、その時名付けの父親に、戦争は起こりますか?と聞いたんです
名付けの父親も「起こると思う」と言っていました

2月24日は、朝5時に、Telegramチャンネルのメッセージが鳴りやまなくて、妻のオリヤー(オルハ)が起きたのです
「戦争が始まったんだ!」と叩き起こされました
私は「戦争が何だよ、寝ろ!」と言っていました
オルハはスマホでニュースを読んでから、1階に降りていきました
そして、爆発音が聞こえたんです
一階から泣き声が聞こえ、彼女は 2階に上がってきました
「オルハ、落ち着け!なんでもない、ただの気のせいだ」
そう言って聞かせました

彼女が横になったそのとき、それが飛んできました
バーン!
まさに、そんな爆発です
飛び起きて、思いましたよ
「神様、どうして再びこんな目に遭うのでしょうか?」

戦争から逃れ、そしてまた始まったのです
すぐにガソリンスタンドに行き、給油するために 3時間並びました
何キロも列ができていたので、オルハはお金を引き出すためにATM に行きました
すべての人がパニックに陥っていました
何をすべきか、どこへ行けばよいのか、何が起こっているのかを誰も理解していませんでした
お店で少し買い物をしてから、家に戻ってニュースを見ました
まだ、その時は電気はあったんです

そして翌日の朝5時に目が覚めたとき、ロシア軍の巨大な軍事車両の車列を見ました
それはこのダイマーからフェネヴィチの方に、文字どおり30 キロメートル続いていました
(注:この時、デミディウを通過できなくなり、ロシア軍の戦車が渋滞し始めたときだと考えられます。)

最終的なロシア軍の戦車の渋滞は青い線の部分

自分の気持ちも… 分かりませんでした、感情のスイッチがすべてオフになってました… 頭の中で計画を立てていましたが、感情はありませんでした
そして、こう考えました
ロシア人が来ているので、バックパックを詰めて車に入れ、車にガソリンを入れて、何かあればすぐにどこかに行けるように準備する必要がある、と

しかし、25日のうちに、デミディウ橋も含め、全ての橋が爆破されました
コザロビチのダムも爆破され、ゴストメリ(ホストメル)まで車で行くことは不可能になりました
(注:2月25日、ウクライナ軍の決断で、デミディウは水没した。これにより、ダイマーからデミディウを通過し、キーウへ向かうことはできなくなった。)

既に選択肢が無かったのです、橋も爆破されたのです
つまり、気がついたら落とし穴に落ちていたようなものです
どこにも行けない、何もできない
車では出られないので、歩くことになるのです
それで、どこに行こうかと話し合いました
母はここにいて、祖母は隣の村にいます
おばあちゃんは83歳です
彼女を置いていけますか?
置いていくとしても、どこに置いていこう?
私たちは 2つの村に別々に住んでいたので、私が行き来して、祖母に薬を運んだりしていました
まあ、そんな感じでした

-占領されている間、どうしていましたか?

-占領されて三日目、私は祖母の薬をもらいに、病院の薬局(当時、私たちの薬局はまだ営業していました)に並んでいました
彼女は糖尿病なのです

一人の男性が列から出てきて
「ここの医者は誰ですか?病院に負傷者がたくさんいます。助けが必要なんです」
と聞いていました
私は医者ではありません
家に帰ってオリヤと母親に話しました
「そうだ、そこに多くの負傷者がいるのだから、私たちは病院に行かなければ」
私たちは一緒にそこに行きました
そして、私たちは36日間、ずっとそこで交代で勤務し、すべての業務に立ち会いました

この36日間、私はすべてを見ました
切断された手足、亡くなった人、そこで起こったことの全てです
いたのは民間人のスタッフだけでした、ウクライナ軍は来なかったので、私たちの軍人はいませんでした
ここは本当に危険な場所でしたから
ここは、ほとんど全部の場所がロシア人で埋め尽くされていたのです
どの家も、どの家にも、ロシア人が近くに立っていました
膨大な量の兵器がありました
我々の兵士はポイント・ゼロにいました
それはデミディウの橋のすぐ裏です
そこがウクライナ軍の拠点があった場所です

2022年11月も、まだデミディウは水没したままである

- 占領軍は民間人に対する犯罪を犯しましたか?

-まあ、見てください
ここには二種類の人が来るのが貴方にも分かるでしょう
理由もなく酔っぱらってやってきて、お説教をする人と、そうじゃない人です
つまり、ここにいる犠牲者の60〜70%が占領者を挑発して怪我をした人だと言えると思います

そして、そうではない人は本当に苦しんでいました
例えば、こんな女の子、ダーシャがいました
彼女は夕方、家族と一緒にカトゥジャンカを通ってダイマーまでドライブしていたのですが、そのときに撃たれたんです
車が撃たれ、父親と継母がその場で殺され、祖父がダーシャを庇って、車から逃がしたのです
彼女は12歳か13歳でした、正確には覚えていません

祖父が彼女を自分の体で庇い、車から押し出し、体を低くしてここから逃げろと言ったのです
祖父は気付かれなかったが、ダーシャは見つかりました
ロシア人たちは、這って逃げようとするダーシャを、「標的だ、標的だ!」と叫んで撃ったのです
彼女は足と腕に銃弾を受けていました
カトゥジャンカに1、2日滞在した後、神父がカトゥジャンカから彼女を連れてきたのです
大きな痣ができ、腕や脚も腫れ上がり、彼女はとても苦しんでいました
しかし、ここにはとても優秀な医師がいて、2週間で彼女を立ち直らせ、もう、彼女は走れるようになっています

それから赤十字が来て、ダーシャはキーウで治療してもらうことができました
ここは、いわば「廊下部門」でしたから
特別なことは何もできなかったのです
彼女を送り出してから、15分ほどで彼女の祖父が来ました
彼は、ダーシャがどれほど悪い事態なのか分からなかったのです
生きているかどうかもわからなかったのです
私たちは、「文字通り15分の遅刻ですね」と言いました
「何が起こったか分からない状態でした
彼女がとても心配で、撃たれるかもしれなかったけれど、我を忘れて、バイクを奪って来てしまった
でも、少なくとも私はまた孫娘に会えるのですね
そうか、彼女が生きていてよかった!神様、感謝します」
と彼は言っていました

そして、友人(ミハイロ)もいました
占領されて5日目くらいで、パンを貰うためにゼロ・ポイントの交差点に行ったのです
ロシア軍が橋に近づき、開いたドアから出ていたミハイロの足や体を狙われたのです
背中から弾丸が当たっていました
撃たれたのです
みんな無事でしたが、彼だけは負傷しました
ミハイロはすぐに車に乗せられ、ここに運ばれてきました
ミハイロは運が良かった
後ろから当り、肋骨に沿って通り、肝臓にも脾臓にも、どの臓器にも当たらず、反対側の皮膚に刺さったのです
ただただ、ラッキーでした!

- 何人亡くなったのですか?

- 三名、死亡しています
女性が一人いました
占領二日目の人です
(注:ヴィタリーは直接関わっていないはずである)
コザロビチのダムにロシア軍の検問所がありました

一人の男がそこへ運転して行ったのです
コザロビチから母とその友人を連れ出そうとしていました
一つ目の検問所を通過し、2番目の検問所も通過しました
(注:デミディウが水没していたせいではないかと推測される)
彼らは戻ろうとして、検問所を一つ通過し、次の検問所で撃たれたのです
女性は肺をやられ、2人目の女性は腕をやられ、後頭部もかすめていました
肺をやられた女性が死亡しました
機材も医薬品も不足していたため、彼女を救うことができなかったのです
これが最初の犠牲者です

二人目の犠牲者も我々の友人でした
彼はビジネスマンで、ここに自分の店があって、占領中でもあらゆる方法で人々を助けていました
彼は自動車部品も持っていて、何でも持ってきてくれました
頼んだものはをすべてです
電池、ろうそく、必要なものをすべて彼が持って来てくれてました
そしてある日...いや、昼じゃない
ひどい夜でした...
彼は友人のところで言ってたそうです
「そうそう、店に窓に鉄格子を付けに行かなければいけないんだ
店に泥棒が入ってるんだ、残念だ」と
その友人は
「もう4時か5時だから、行ってはいけないよ」と彼に行ったそうです
それで彼も「よし、明日の朝、行くことにしよう」と答えたそうです
でも、彼は家に帰ることができなかったんです

家族は朝になってその店に行き、彼の車も見つけたけれど、中には入れなかったそうです
彼らはオークたちに、遺体を返してもらえるようにと頼みました
奥さんは、ずいぶん長い間オークを説得しようとしたようです
2、3時間も
それで、やっと返してもらったのです
それから病院にやってきて、私の母に会いました
母が私を呼びに来て「外に出て、車から荷物を降ろして」と言いました
私は人道的支援でも運んできたのかと思いました
外に出て言いました
「さて、みんな、何をおろそうか?」
それでトランクを開けたら、そこにはドミトリーがいたんです
ショックでした
昨晩、彼と話し、車用のプラグを購入するつもりでした
とにかく、怖かったです
めった撃ちされた彼を呆然と見るしか無くて
50発以上撃たれていました
服を脱がせようとすると、弾が、彼の遺体から落ちてくるんです
撃たれたとき、車は無かったはずです
全身が撃たれていました
撃たれて、何発も貫通していました
その数と同じくらい、弾が体に残っていました
なぜ撃たれたのか、なぜその瞬間そこに彼がいたのか、誰も知りません

(つづく)

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