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スターリンのサモワール

露公共メディア情報の再構成:(3,563 文字)

サモワール(露語:самовар)は、露などのスラブ諸国、イラン、トルコで古来より用いられてきた金属製の伝統的器具
露で給茶器として発達し、露語の「サミ(自分で)」と「ワリーチ(沸かす)」にちなむとされている
貴方は「スターリンのサモワール」と聞いて何を思い浮かべるだろうか?

「タンカー」と「サモワール」

戦争で障害を負った帰還兵 大祖国戦争では、数千万人の死者に加え、4625万人が負傷した
サンクトペテルブルグ軍事医学博物館によると、このうち1,000万人が障害を負い、300万人が片腕、110万人が両腕がない状態で帰ってきた

障害者は町や村の通りを埋め尽くした
車輪のついた台に乗り、特殊な道具で地面を押して進む障害者を、ソ連人は「タンカー」と呼んでいた
四肢を失った最重量級の障害者が「サモワール」と呼ばれた
ソ連政府は、障害者を不満分子として注視していた

1943年から1944年の間、KGBは地方の国家保安機関に指令を出し、障害者が反体制の扇動に従事していないかどうかを監視し、予防措置をとるように要求していた
障害者が怒る理由は多くあった
国家は、彼らから必要なものを貰い、そして、見放したからだ

社会福祉施設ではなく収容所

彼らに正式な就労は許されず、年金が支払われた
最も重度のカテゴリーであるⅠ級・ⅡI級障害者の手当は300ルーブルで、未熟練労働者の給与の半分であった
ソ連政府は障害者は親族が面倒を見るべきであり、国家は障害者に何の義務も負わないと考えており、親族や両親がいるⅠ級、Ⅱ級障害者を社会福祉施設に入所させることは法律で禁じられていた

他方で、「社会主義社会では、腕のない人でも働かなければならない」というのが、一般ソ連人の第二次世界大戦に勝利した後の戦争の英雄たちへの反応だった
足のない者は、お針子になったり、時計を修理したりしていた
それすらできなければ、ボロ布を身にまとい、物乞いをやるしかなかった
田舎ではもっとひどかった
しかし、街角にいる障害者は逮捕され、収容所に送られた
ある者は親類が探し出して家に連れ帰ったが、残りの者は収容所で死んだ

アルコール依存症

「稼いで、飲む、稼いで、また飲む…それが彼の生き方です
そして、幸せだと言う
そうするしかないんですよー脚は生えない...」
ビクトル・ネクラソフは、両足を失った友人の生活をそう描いている

ビクトル・ネクラソフ:1974年フランスに亡命した作家

アルコール依存症は、傷痍軍人を乞食にすることが多かった
戦後の貧困の「顔」となったのは、勲章をつけ、足を無くした、勝者であるはずの軍人たちであった
足も腕もない「サモワール」の姿は、発展し繁栄するソ連の美しいイメージを台無しにした
偉大な戦勝国を見に来た外国人にどう思われるかを恐れた
なんとか食べていこうとしている、駅や路上にいる障害者の憂鬱な写真を撮られることを恐れた

「貧困と反社会的寄生虫対策最高議長令」

こうして生まれたのが、1951年7月スターリンの主導によるソ連閣僚会議と最高会議常任委員会の指令「貧困と反社会的寄生虫対策最高議長令」である
公式に、アルコール依存症の傷痍軍人たちは社会の「寄生虫」とされたのである
これに従い、一時は、主要都市で粛清が行われたこともあった
撃ち殺された者がいたとの情報もある
短い裁判もあった
例えば、 ソ連構成国の一つコミュ共和国では、元ソ連赤軍の将校が作ったとされる「障害者連合」が摘発され、そのメンバーは重い刑に処されている

ヴァラム島の旧修道院

ヴァラム

ヴァラム特別レセプションセンター 「サモワール」の運命は、さらに悪いものだった
ヴァラム島にある旧修道院に彼らは集められた
そこでは、厳格な特別留置場が運営されていた
正式には「戦災身体障害者援護施設」といい、1950年に設立された

このレセプションセンターは、障害者のケア、より良い栄養、自然、新鮮な空気を提供するというのがレセプションセンターについての公式の説明であった
戦争で手足を失ったことを唯一の「欠点」と見なされた人々が、収容所と精神病院の中間のような環境に置かれた
特筆すべきは、「サモワール」の多くは力づくで送致されたわけではなく、親族に負担をかけないために、自らヴァラムに行ったことである

文明から遠く離れ、自然は厳しく、食料や医薬品は外部供給へ依存しており、この地は生活にはあまり好ましくない場所だった
旧修道院も決して快適な場所では無かった
屋根のない建物もあり、電気が通ったのは数年後だった
当初は医療スタッフも不足していた

多くの退役軍人が、島に滞在した最初の数カ月で亡くなっている
この特別レセプションセンターでは、患者からパスポート(ソ連では国内の移動にパスポートが必要だった)やメダルなどの書類を取り上げた
収容所の囚人たちと違い、ヴァラムの住人は自分の運命を書き残すこともできなかった
所轄官庁の許可なくして、外部の人間が島に入ることもできない
そして、公的な記録も一切残されなかった
また、厳格に「見えなければ気にならない」を体現したこの特別レセプションセンターの存在を知る者も少なかった
流れたのは真偽不明の噂だけで、その噂を流した者はKGBに取り調べされることになった
「サモワール」の運命については、古い文書やわずかな文献からのみ知ることができる
例えば、ヴァラム島で40年間観光ガイドを務めたエフゲニー・クズネツォフは、彼が接したサモワールたちについて詳細な記述を残した
その成果が有名な「ヴァラムノート」である

ヴァラムノート

ヴァラムノートの前半(1章~5章)はこの島の旧修道院の歴史について、その土地の美しい名所について描かれている
そして、6章以降は、彼の目を通してみた特別レセプションセンター、彼自身の傷痍軍人たちと接した経験について描かれたものである
そこには、スタッフが患者の面倒を見ず、例えば何ヶ月も寝具を変えず、患者のものを盗んだという証言も含まれている

一部抜粋しよう

(施設がつくられた)形式的な説明:住宅、広い敷地、広い菜園(一つの菜園には多くの価値がある)、農業のための広い候補地、果樹園、ベリー類の苗床
そして非公式な、本当の理由:何十万人もの不具者、腕なし、足なし、居場所なし、鉄道駅、列車内、路上、その他どこでも物乞いが、「ソ連の勝者」にあまりにも意味をなして(疑問を与えて)しまったのである。
胸元を(メダルで)飾り、パン屋さんのそばで物乞いをする、ということを想像してみましょう。
ダメだこりゃ!ぜひとも処分してください。
でも、どうしたらいいんだろう?
(そうだ!)かつての修道院へ!離島へ!見えないところ、気にならないところへ!
数カ月もしないうちに、戦勝国は、この「恥」を一掃してしまったのだ。
こうして、キリロ・ベロゼルスキー、ゴリツキー、アレクサンドロ・スビルスキー、ヴァラムスキーなどの修道院に、こうした乞食が生まれたのである。
修道院にというより、修道院の廃墟の上に、ソ連当局に潰された正教の柱の上に、である。

ソ連邦は、障害を負った勝者に対して、その傷害、家族、家を失ったこと、戦争で荒廃した家に対して罰を与えたのだ。
貧困と孤独と絶望で彼らを罰したのだ。
ヴァラムに来た人は皆、瞬時に 「そういうことか!」と気付いた。
その次にあるのは行き止まりだ。
そして -廃墟となった修道院の無名の墓で沈黙している。

読者の皆さん!
親愛なる読者の皆さん、今日、彼らがこの地に降り立った瞬間に、限りない絶望と圧倒的な悲しみに圧倒されたことを理解できるでしょうか。
牢獄の中、恐ろしい収容所の中に入っても、外に出て自由を手に入れ、もっと違う苦しくない人生を送りたいという希望は常に揺れ動くものです。
しかし、逃げ場はないのだ。
出口はなく、死刑を宣告された者として墓に入るだけである。

ヴァラムノートを転記したもの(とされるもの):

画家のゲンナジー・ドブロフが1974年に公開した患者の肖像画も多くある

ユーリ・ナギビン(ソ連の作家)は、ヴァラムの「サモワール」の運命を作品に描いている

ヴァラムの特別レセプションセンターは1984年に閉鎖された
サモワールの避難所は、この島だけではない
例えば、シェクスナの海岸にあるボログダ地方の戦災身体障害者援護施設には、数百人の病人が住んでいた
1952年、レニングラードの街角を彷徨っていた足のない男、ワシリー・ペトログラードスキーがそこに送られた
友人から寄贈されたアコーディオンを持って施設にやってきたワシリー
彼は、アコーディオンの伴奏で、病人たちの合唱団をつくった 合唱団は川岸で歌い、観光名所になった
(終わり)

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参考:

https://author.today/post/118433


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