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この戦争は、どう始まったか -ヘルソン(2)

11月23日 ウクライナ・プラウダ :(5,157 文字)

彼らはヘルソンのために立ち上がったー自由都市の防人の物語


ヘルソン市の解放は、多くの住民たちにとって快報でした
特に、領土防衛軍ヘルソン大隊の兵士たちにとっては
彼らは武器を手にとり、侵略者からヘルソンの自由を守ろうとした最初の人たちです
2 月に開始した彼らの任務を、彼らの仲間であるウクライナ軍が、ついに先日、完了しました
私たちは、領土防衛軍第192ヘルソン大隊の兵士たちと会いました
2月にヘルソンを守り、3月1日に包囲されたヘルソンで、侵入してくるロシア軍を阻止するために戦った人たちです
人それぞれに、戦争が始まった当時とその後の数か月のあいだに、一人一人の興味深い話があります

彼らはアントニフスキー橋周辺での戦い、街の入り口でロシア軍の進撃を食い止め、占領中も戦ったパルチザンです
捕われ、拷問を受けた人もいます
彼ら全員が、ヘルソン大隊の復活と、ヘルソンとウクライナ全体の自由を見たいという願いによって互いに結ばれていました

以下は彼らのストーリーです

ウクライナ領土防衛軍へルソン大隊の指揮官 イゴール・リホノフ

イゴール・リホノフ

2月24日、領土防衛軍ヘルソン大隊は、街を守りたいと立ちあがり、武器を手に取った数百人を仲間に迎え入れた

「多くの人がやる気を持って来てくれました
『早く、武器をくれ!戦いに行きたいんだ!』と 誰もが言っていました」
この指揮官はそのように回想する

「その日、領土防衛軍ヘルソン大隊の兵士たちは戦闘に参加しました
アントニフスキー橋の戦いです
ヘルソンの人々は、ウクライナ軍を支援するために戦い、そこで、ヘルソンは初めての損失を被りました」

注:ウクライナ軍第59機動歩兵旅団はドニエプル川右岸で抗戦していたが、撤退を余儀なくされ、アントノフスキー橋を渡河しようとしていた。

撤退の後も、指揮官とその兵士たちはヘルソンに留まることにした

3月1日、ロシア軍の進駐が始まると、領土防衛軍の兵士たちは数か所で占領軍を迎え撃った
ショッピングセンター「Fabrika」周辺では、ウクライナの戦闘機中隊が敵の戦車中隊と遭遇した

このような都市防衛のエピソードをもって、指揮官は「へルソンは戦わずに降伏した」という言葉は適当ではないと断言する

「彼らはヘルソンを守ろうとしました
まず第一に、街の住民が守ろうとした
住民たちは最後まで守ろうとしました
これは私たちの地域防衛の行動によっても確かですし、ライラック・パークの戦いも、この事を示しています

そこで殺された人々、アントニフスキー橋付近の戦闘で負傷した人々はこの事を認めており、ヘルソンの集会でも確認されました
つまり、ヘルソンの人々は自分たちの街を守るためにあらゆる方法を試みたのです
戦える人はだれでも
私たちは最後まで守ろうとしたのです 」

ヘルソンを占領されても、領土防衛軍の一部の兵士は市内に残り、パルチザン活動を呼び掛けた
指揮官はこの活動を調整した
占領者はパルチザンを捕まえようとした

「ロシア人が私の家に、私の両親を捜索しに来ました
彼らは私のアパートのドアを壊し、ロシアの捜査官が捜索しました 」

ヘルソン大隊のパルチザンの何人かは、ロシア人によって発見され、拘留されている
指揮官は兵士奪還のために最善を尽くしました

二か月後、指揮官はミコライウに移り、大隊の再組織を始めました
最初は13名でのスタートだったが、時間が経つにつれ、部隊は本格的な戦闘ユニットになり、ドネツク州とハルキウ州で任務を遂行できた
9 月のハルキウ州解放の際には、ヘルソン部隊は 敵の捕虜を6 人捕らえています

今、イゴール・リホノフ はヘルソンに戻り、両親の家を訪ねることを望んでいます
大隊に所属する他のヘルソンの住民たちも同じ望みを持っています

へルソン大隊の中隊長 ミハイロ・バリュク (リマン)

2月24日の朝、中隊長のミハイロ・バリュク(リマン)は警報を聞いて大隊本部に駆け付けた
その日、彼はヘルソンの人々の街を守ろうと、固く決意していたという

ミハイロ・バリュクの部隊には、志願兵の中に17 歳の少年が一人いました
部隊の指揮官は少年を入隊させたくなかったようですが、少年はすでに武器を受け取り説明も受けていました
「すごく怖いけど、とにかく、ヘルソンを見捨てるつもりはありません」
この言葉に、バリュクは背筋が震えたと言います

その日、バリュクはこの少年と部隊の他の兵士たちと一緒に、アントニフスキー橋のエリアに向かった
当時、ウクライナ軍第59機動歩兵旅団がアントノフスキー橋で渡河を試みていた
ヘルソンの領土防衛軍は、彼らを支援した

この戦闘中、部隊は敵の空爆を受け、別の中隊長(コールサイン「べレザ」)が負傷し、バリュクも負傷した

「覚えているのは、全身泥まみれで横たわっていたこと
無傷だと思ったこと
撃たれてはいなかったこと
でも、息ができなかった
『リマン!』と私を呼ぶ声が聞こえ、みんなが私を担ぎ出してくれました」

「3月1日、司令官は占領者を迎え撃つために中隊を率いました
その日、ロシア人はいくつかの方向からヘルソンに入ってきたのです」

ミハイロ・バリュク の部隊は、「Fabrika」ショッピングセンターのエリアで防衛戦を行った
しかし、戦車には歯が立たなかったという

都市が占領され、部隊は占領された領域を脱出しようと試みたが、その途中で、部隊はロシア軍に拘束された

翌朝、誰がまだ拘束されているのか分からないままバリュクは釈放された
その後、1週間ほど治療を受け、パルチザン活動を開始した
活動中は、4つのアパートを変えなければならなかった
ロシア軍は気が変わったようで、バリュクを追っていた
それでへルソンを離れ、ミコライウでへルソン大隊に合流することになった

「すべてが終わったら、部隊と戦争についての本を書くつもりです
執筆を、教師をしている妻が手助けしてくれるのを期待しています
それまでは戦います…最終的な勝利まで」

彼は動機を簡単に、次のように説明します
「母はロシア軍の爆撃で死にました。あの犬どもには聞きたいことがあります。」

へルソン大隊の副中隊長イホール・クラヤン

2月24日、実業家で志願兵のイホール・クラヤンさんは、爆発音で目が覚めた
バルコニーに出ると、チョルノバイフ飛行場の近くに大きな煙の柱が見えたという
数時間後、ニュースで、ロシア軍がヘルソンに迫ってきていることを知ったそうです

正午になり、クラヤンは必要な書類を集めて入隊事務所に向かいました
そこでウクライナ領土防衛軍ヘルソン大隊の仲間に入った
機関銃を受け取った後、部隊と共にアントニフスキー橋へと向かいました

「すでに暗くなっていました
橋の周辺で戦闘が続いてました
爆発があり、ヘリコプターが飛び、航空機が発砲し、ミサイルが着弾し、野原は燃えていました
とても酷い状態でした
混乱していました」

「橋に向かう途中で、領土防衛軍の仲間の兵士が警察官たちに会いました
彼らは、ウクライナ軍はミコラーイウに退却し、ロシア軍がドニプロ川を突破したと教えてくれました
ロシア軍の大きな車列が近づいて来ました」

クラヤンは、武器を手にして 3月1日までヘルソンに留まった戦闘員の 1 人だった
その朝、クラヤンの部隊はチョルノバイフカ方面から街に入ってくるロシア軍を迎え撃つために出発した

チョルノバイフカ

しかし、露軍の装甲車タイガー《ГАЗ Тигр》や戦車をマシンガンだけで止めることはできなかった
部隊は市内中心部へ渡る鉄橋まで撤退しようとした

タイガー《ГАЗ Тигр》

「しかし、私たちがそこまでたどり着く前に、機関銃で撃たれ、手榴弾を投げられました
それで、私たちは戦うことにしました」
しかし、結局、領土防衛隊の隊員たちは逃げなければならなかった

占領中、クラヤンは街に留まった
ヘルソンの中心部で起こった集会に参加し、地下活動をし、地元の公判前拘留センターに拘束されていたウクライナ兵士たちを救出する計画を立てた

しかし、4月5日、クラヤンは FSB に拘束された
彼らにパルチザンの計画が洩れていたことが分かっている

「彼らは私を警察署の地下室に連れて行った
すぐにそこで私を殴り、拷問し始めた
3日間、私は切り刻まれた 」

その地下室で何人もの人々が拷問され、死んでいる
クラヤンはもっと幸運だった
セヴァストポリに送られることになったからだ

ロシア人はヘルソン領土防衛軍の 4人の兵士をそこに集めた
彼らは戦犯として 4人を「人民刑事法廷」にかける準備をしていた
ある日、ヘルソンの 4人は「ショーウィンドウに飾られるような外観」を与えられ、ロシア・テレビのプロパガンディストが現れ、まもなく捕虜交換されることになった

その後、クラヤンはヘルソン大隊に戻り、任務を続けた

へルソン大隊の下級軍曹ミコラ・ゾズリヤ

ミコラ・ゾズラは58歳です
眼が悪くて眼鏡をかけていまが、彼は大丈夫だと言います
「機械はよく見えるし、眼鏡があれば、 スマートフォンの文字も読めるよ」

2月24日、彼もヘルソン領土防衛隊の事務所を訪れた 1人でした
彼は、人々は何の情報もなく長期間放置されていたと言います
それで、多くの人が帰りました
しかし、ミコラは彼らがいなくなっても待ち続け、武器を貰うまで待ち​​ました

ヘルソンの防衛中、彼は「Fabryika」ショッピングセンターの近くでの戦いました
ヘルソンのほぼすべての市民が、その戦いの結果、つまりショッピングセンターが焼け落ちたのを見ました

領土防衛隊は朝からこの場所で防御を準備していました
昼食後、ロシア軍が歩兵と装甲兵員輸送車で侵入してきて、部隊は撤退することになった
ただ、少なくとも 3両の戦車が無くなった
ウクライナの戦闘機は、アサルトライフル、グレネードランチャー、それに「モロトフ・カクテル」しか持っていませんでした

「どのように戦車に瓶を投げる?
ここは、バルコニーから投げられるキーウじゃないからね
瓶をぶつけるには、戦車に向かって15メートルのところまで走っていかないといけない
だから、誰もそれを投げることさえできなかった
たくさん準備したんだけどね」

そのような状況だったので、部隊は都市に撤退しなければならなかった

今日、領土防衛軍のヘルソン大隊の戦闘員は、2月のヘルソンの戦いは「本来そうであるべきもの」ではなかったと悔しがっている
しかし、彼は保証する
「ヘルソンは戦わずに降伏したわけではありません」

へルソン大隊の中隊長イゴール・フリホレンコ (ヘリコプター)

元領土防衛軍のベテランであるイゴール・フリホレンコ は、2月24日に大隊に志願兵が大量に流れ込んできたことを思い出す

「戦闘経験のない人がほとんどでした
しかし、彼らは武器を受け取り、すぐに戦闘に参加しました」

ヘルソンが戦わずして降伏したと言われると、「ヘリコプター」のコールサインを持つこの中隊長は憤慨する
それどころか、次のように強く言い切る

「ヘルソン領土防衛軍は 3月 1日まで市内にいました
そして、ロシア人がさらに前進しようとするのを妨害しました」

「ヘルソンの人々はロシア人を 6 日間も足止めしました
それは十分すぎます
ヘルソン州での私たちの行動により、ミコライウに毎時間、毎日、準備する機会を与えたはずです
だから、私たちがロシア軍がミコライウを急襲することを許さなかったのです 」
そのように、この戦士は信じています

アントニフスキー橋での戦いの後、フリホレンコと彼の中隊の一部は第 59旅団に合流しました
次の 2か月間、フリホレンコはミコライウ州で彼らと一緒に活動しました
そして、指揮官イゴール・リホノフがヘルソンを脱出し、ヘルソン大隊を再建し始めたとき、イゴール・フリホレンコは再び、その古巣の部隊に転属した 

その間、彼の息子は占領下のヘルソン州でパルチザンとなっていた

「息子は彼らのタイヤに穴を開け、ディーゼル燃料を盗み、タンクに穴を開けていました
息子は19歳でしたが、彼と友人たちはヘルソンで組織的に活動を行っていました 」

母親、兄弟、その他の親戚は、占領下のヘルソンで息子と一緒に暮らしていました
イホールは、ヘルソン大隊での勤務をヘルソンとのつながりだと認識しています
ヘルソン大隊に戻る前の数か月の間、ドンバスとハリコフで戦っていました

「私たちはヘルソン出身で、ウクライナ人です
ウクライナ人がどこにでもいることをロシア人に知らせてください
すべての都市と同じように、私たちは皆ウクライナ人として生きているのです」
と フリホレンコ は締めくくった
(終わり)


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