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自分のやりたいことがちゃんとあったのに人の言うことを気にして最初からやらなかった人間が今思うことを伝えるからやりたいことあるのに目を背けてるそこの君よく読んで本当にそれでいいのかもう一度よく考えて。年も実現できるかも無視。方法は探せばいい。やりたいかどうかだけを今考えて。

最初に結論を言うと

人の言う事は最速2秒で変わるんだから気にしない。勿論自分の考えも2秒で妥協ではなく最適解と思ったら変えていい。


余談

見返したいや復讐心など怒りは原動力になる。でもそれはあくまで力であって目的にしちゃいけない

という話です。


小夜左文字

小夜左文字という刀の逸話を知っているだろうか。安土桃山時代、浪人の夫を亡くした女は幼い息子を連れ、形見である左文字の短刀を生活のために売ろうと小夜の中山(現在の静岡県掛川市)を越えていたところ、賊に襲われ息子を残し死んでしまう。幼い息子は、奪われた左文字の短刀が実は貴重な刀と知り「必ず研ぎに来るはず」と掛川の研師のもとに弟子入りし、来る日も来る日も復讐相手が現れるのを待った。幼い少年が青年になった頃、刀を研ぎながら待ち続けた怨敵が左文字の短刀を持って現れた。母の仇を、父親の形見である左文字の短刀で討ったのである。


それ以降、小夜左文字は復讐を成し遂げる刀としての逸話が語られるようになり、細川家に渡った。

安土桃山時代の話だとどうしても昔の話のイメージが強いので、私の話に置き換えよう。


幼少期のあせびちゃん。親の理想のいい子になりたい!

幼少期は親の言うことをよく聞く子だった。親にとって手のかからない私であることを優先した。甘えることもあったが「こうすると親の喜ぶ顔が見れる」という打算もあった。保育園児にして恐ろしい子である。

その後も本や漫画を読んで得た知識で漢字テストは高得点。国語も強かった。美術が好きで絵を描くのも好きだった。国語のテストの出来がよく、満点をとったときに「ママは鼻が高いわ」と言われたことを今でも覚えている。
もう一度言われたくてがんばったが、中学生になりそれまで下手に良かったせいで怠け、点数が取れなくなり二度と言われることはなかった。


中学生のあせびちゃん、自分の意見が強いと思われていたが本当は誰より他を優先する子だった。担任から周りを見なさいと何度も怒られもとから縮こまっていたのに更に縮こまってしまい現在含め20年以上悩んでいる。


私は昔からやりたいことがあっても「やめときなよ」「やれるわけないじゃん」と言われることが多かった。

中学生のとき、ダンス部かっこいい!と思い憧れて当時の友人と体験入部を経て入った。
二度目に行くと
「当然前回教えたことは覚えてるよね?通して踊るよ」との先輩の言葉に慌てた。
周りはダンス経験者で次のときにはもう殆ど踊れていた。
ダンス部に入った経験者の子に「すごいね」というと「当たり前のことだ」と返され経験のない私にはそれが当たり前のことなんだと思って心が重たくなったのを覚えている。

その後も怒られてばかり、体の使い方もなってないと怒られ、段々と行くのが億劫になってきた頃。夏にもなってなかったと思う。

前で踊る先輩たちの後ろ姿がかっこよく、みんなで踊るのはなんだかんだいって楽しかったのでゆるくやろうかな半分辞めたいな半分だったときのことである。

同時に入部した当時の友人に
「あせびちゃん、部活辞めない?他の同級生の子がバドミントン部にいるからそっちに行こうよ」

辞めるきっかけになったなと思った私は同意した。でも正直もう少しあとでもいいと思ったが、結局私は辞めた。

(その友人は本当に人をコントロールしたがったり同級生を無視することを強要しては私はそんなこと言ってないというような人間立ったのを思い出す。人の意見に流されていた自分も人から見たら悪いのだろうが、それが私の当時の処世術だった。長いものに巻かれる。強いものには屈しておく。流れには抗わない。
そしてその当時の友人は生理痛に辛くて授業中痛いしか言えなかった私を「黙りなよ」「みんな痛みを我慢してる」「男子に笑われてるよやめなよ」と言ってきた人でもある。世の女性が我慢してるのはわかったが、私は痛いことや無理することに弱かった。恨み言が出るような相手とはさっさと別れたほうがいいというのは、中学3年間で得た教訓となっている)

その後美術部に入ろうと思った私はその当時の友人に
「将来骨がもろくなって歩けなくなるから今のうちに動いた方がいい。美術部なんて入ったら将来寝たきりになる」と言われビビリな私は怖くなって従った。

そしてやりたくもないバドミントン部に入り、またどんどん幽霊部員になった。

私は仲良くし続けたかった他の人から疎遠にされていた友人も、その時の友人に睨まれて一気に疎遠にしてしまった。とても申し訳なかったと思う。

道具も買ってもらってる私は親に
「どうしてももう嫌だ、辞めたい」と言ったときに
「もう変えたいの?💢部活そんなにコロコロ変えてあんたは何がしたいの!💢道具まで買ってもらってそんなんじゃ将来やっていけないよ!💢」

会社に入ってとりあえず5年やってみないと実績がつかないというのと中学生の部活と同じ考えを持つのはいかがなものかとも思ったが言わんとしていることはなんとなく分かっていた。分かっていたが、3年しかない中学生活で人に流され始めたことをやめたいと思ったから辞めることの何がいけないのかと思っていた。

まずここで一つタイトルのことが言える。

人の言うことを理由に自分のやりたいことを曲げて始めるとしこりが残ってろくなことにならない。

勿論人に言われたから始めたらなんとなくうまくいったとか、始めてみたら案外ハマったとかうまくいかないことで「なにくそやってやる」と思える人も世の中にはいる。

私はそういう人間ではなかった。やりたいことがあるのに、人の言うことを聞いてやりたいことをやらない理由にしてそっちに行った。

中学2年、受験を理由にして部活をやめた。3年目でやっと、やりたかった美術部に入った。
母に「ずっとやりたかった」というと、「最初からそうしたら良かったじゃないの」と言われた。
それはたしかに周りから見ても自分から見てもそうである。
そうしなかった、そうできなかった理由を、聞いてくれる人は誰もいなかった。
カウンセリングでもなんでも、人を頼れば良かったと思う。
スキル「誰も頼らない」に拍車がかかった時代だった。


高校生のあせびちゃん、優柔不断に悩みすぎて友人にとうとう怒られる。

スポーツはできないルールも曖昧なのに当時好きだった「ダイヤのA」に憧れ女子野球部に入った。

ルールわからないならちゃんと聞けばいいのに野球のルールもわからない人間と思われたら何を言われるのだろうと怖くて聞けなかった。人間掲示板なのに。アウトもストライクの表示もめちゃくちゃであった。余計に怒られた。

何でもできる理想のいい子を演じないといけないと思って、失敗や怒られることを極端に恐れる子に育っていた。

ちなみにマネージャーの先輩は白石麻衣似の黒髪と笑顔と白い肌が似合う超がつくほどの美人だった。

その部活も段々と行かなくなった。辞めたいなと思い幽霊になりながら地獄の夏季合宿に参加した。夏季合宿に一種憧れていた。

病院行くと言いつつ友達と公園で遊んでいたのを見られ怒られたこともある。そのくらい行きたくなかったしもはや自分でも何がしたいのかわからなかった。続けたくない。けどやめると怖くて言いにいけない。

その後合宿終わりに監督に辞めることを伝えに行った。真っ直ぐに玉を打ち返せる才能が惜しいと言われて引き止められたが母には「むしろそれって悪いことでしょ」と言われた。

私には悪いのか良いのかわからなかったが「あなたがいると試合に絶対勝つから補欠でいいからいてほしい」という同級生の言葉は素直に嬉しかった。多分人数がギリギリ過ぎるが補欠が私のような人間でもいいから居てくれることに安心感が出るゆえの勝利だと思うが。

晴明神社の勝守の仕事とも言えるかもしれない。

色んな人からの引き止めにより「やっぱり続ける」「やめたい」を繰り返していたら、友人二人から「私達いつもあんたのその優柔不断な話聞いてるけどそろそろうざい」と言われてしまい、人に相談しないのスキルを得た。正論だと思った。

結局辞めた。その後ダイヤのAより楽しそうで入りたかった生物部に入りのびのびした。
母には「最初からそうしなさいよ」と怒られた。
正論だと思った。

大学生のあせびさん、教授からゼミ二日目にして言い当てられる。

人を頼ることができないこと、目標を立ててそこに向かうことはできるけど計画性がないこと、誰かに相談することができないこと、自分一人でなんとかしようとしてしまうこと、自信がないこと、変に焦りやすいこと、細かいことに集中できるのに全体を見る力は弱いこと、0か100しかなく、言われたことは本当に忠実にやるが柔軟に対応するができないこと。

大学生にして、こんなにも個を見てたくさんの指摘を頭ごなしでなく諭すように教えてくれる人に出会うと思わなかった。

怒られる=怒鳴られるで、内容よりも「いかにして怒りを鎮めてもらうか」「何を言えば許してもらえるのか」「逃げ出したい」「すみません以外何を言えばいいんだろう」「いつこの無限ループから解放されるんだろう」「誰も助けてくれない」「誰にも助けてもらえない」「怒られても仲のいい友人らと私は何が違うんだろう」「私は消えたほうが親にとって気が楽になる」「なんで生きてるんだろう」「なんでお前はうちの子じゃないと言うなら産んだんだろう、つくったんだろう」そういうことばかり考えている時間だった。

教師からの言葉も「まだだめな人間なんだ」と思う一心だった。改善より自分を責める時間だった。

本当の「教えてもらう」「叱られる」を身に沁みて体感したときは、謎の感動と「恩師に出会えた」という喜びで目から涙が溢れそうになった。

伝え方もあなたを見て変えると言われた。こんな先生いるんだと思って驚いたしまた涙が出かけた。目上の存在に優しくされるとどうしても涙が出てしまう。それを知ったのも先生がきっかけだった。

流されやすいのも美徳?

流されるのもときには必要、流されやすいのも美徳。

人からそう言われることが度々あったが同調圧力と協調性を重要視する日本においては扱いやすい人間がたくさんいることのほうが楽だからそうだろうなとも思う。

強い上官が右といえば右を向き納税しろと言ったら何も言わず納税する軍隊の隊員がほしいだけなのだから。

私の場合は上官は友人だったり先生だったりと人を変え品を変えして来たが、20年同じ問題に前を塞がれ続けている。

人に合わせてませんか?自分のやりたいことを抑えてませんか?自分のやりたいことって、本当にそれですか?

自分のやりたいことを抑えて人の船頭する舟に乗ってませんか?その舟を漕いでるのは他人です。他人は自分の舟を漕いでいてそこにあなたが乗ってる状態です。本当にそれでいいんですか?あなたが景色を見たいから舟を止めようと思っても舟を動かしてるのが他人であれば、勝手に漕がれ続けてしまいます。あなたの舟はどんな色をしていて、どんな姿でどんな形をして旗は何を描いていますか?

どこに向かうのも、どこで舟を停めるのも、どんな旗を掲げるのもあなたの自由です。自由を人に渡さないでください。

TOK10の宙船も、このことを言いたかったのかなと思っている。



余談

私は特に親からの影響が強い。親の「できるわけないでしょう」が未だにこびりついている。

大学の学部選びのとき医療系を目指した私に父が言った「お前が人を救える訳がない」の言葉
なかなか大学が決まらないとき母からの「私が受けたほうが受かる」の言葉

今でも忘れない。6年経とうと私は今でも腹に据えかね怒り続けている。言った本人は忘れている。
した側は覚えてないんですよ。

"したことを後悔させてやる"と思っても相手は覚えてない。力にするだけ。目的にしてはいけない。見誤る。

ちょっと話は変わりますが妻の「天下統一をして自由にいろんな世界が見たい。果は外つ国まで」と言った言葉から始まるレジェンド&バタフライの信長みたいですね。

(小栗旬ますます信長役ハマるようになったなあ〜、いやあ渋くなったなあかっこいいなあと思ってたらキムタクでした)

怒りを原動力に、自分のやりたいことをやる。やりたいことをやり始めてうまくいきはじめたとき、否定してた人が応援し始める。そのときに言ってやればいい。「あなたが否定してたことよ?」

別に目標を人に言わなくたっていい。

もとから持っていたもので人をアッといわせてやりましょう。進撃のミカサの言葉が頭を過ぎりますね。

私が変わったんじゃない。もとからあったものを外に出すことにしただけ。私の変化を「指でもくわえて見ていればいい」

応援歌は宙船とThis is meです。

私も聞かれてもやりたいと言い出せなくてやめた文芸部と、興味があっても否定されてやめるしかないのかと思った仏教、もっかい計画を立てて考えます。


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