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Misstopia: パラレルワールドと喪失感

訳あって「Misstopia」が流れている間冬の日々、冬の雰囲気を思い起こしてしまう。
初めて聴いたときをまだ覚えている、17歳だった。その上、12月31日だった。私は近くの町に住んでいる友達と会いに行っているところだった。バス停のベンチで座っていて、十二月の寒い空気が日差しの温もりに和らいでいて気持ちよかった。ノーベンバーズを聴き始めた頃より遅いね、わかっている。あたら、ノーベンバーズの作品がSpotifyのイタリア版で公開されていなかっただけでなく、その存在さえあずかり知らなかった。しかも当時YouTubeもなかなか使わなかったし。
年末が近付くにつけ、過去の思い出も将来への希望も頭を取り巻く。

私にとって「Misstopia」と年末の絆はパラレルワールドというコンセプトに宿ると言える。何か新しいことの始まり、生まれ変わるような感じ。恐らく、苦難を取り残す可能性。
この作品で小林さんが最も大切にしているテーマや着想がしみじみ現れる:愛の勢い、現実対異世界、喪失感。「Misstopia」の冒頭がやはり理想的な状態を描くということが見られる。駆けだす生まれたばかりの二人、「Paraphilia」のイデアリズムから出てきた印象がある。無罪の心、生まれたての身体。

しかし、「Misstopia」時代の小林さんは苦い結論に至った気がする。自分の憧れた永遠とはありはしない。「Paraphilia」でもこの苦渋の跡に気付ける、特に「Mer」という名曲に。先言った通り、「Mer」は幻想の終わりの反面、もう一つの長道の始まりでもある。

年を取る場所を探してたけど
本当はそんなものありはしない

The Novembers 「Mer」

実にこの数年間ノーベンバーズの全作品を聴いて、「Misstopia」と「Paraphilia」が繋がる制作。「Misstopia」がその前作の継続に感じる。前作のテーマを生かして、新しい世界に至る。「Misstopia」という曲を語る意識は「Paraphilia」の未熟である感じがする。「Misstopia」という曲から捉えるのはなんとか二人の観念。この観念の以前、余所に行ってみたあげく、この世界に戻るしかなかったばかりか、生命の儚さに気付いてしまった。そのわけで、「もう僕の場所じゃない別に悲しくない」というセリフは聞き手を驚かせないという感覚がある。ほぼ当たり前な結論となる。

個人的に、この「Misstopia」の一節を聴くと、必ず震えてしまう。書いた姿だけでなく、小林さんの歌い方、リズムも心を打つ。私も、自分の場所と呼べるところをなくしただけに、「Misstopia」の話はとりわけ適切だと思った。一時自分を喜んだこと、一時自分を癒してくれたこと、もう助からない。あるいは場違いに感じさせた人、環境、状況などに対して無感覚になってきたこと。つまり、自分を見忘れること。それは先言った喪失感。

「Misstopia」は成長させられたまだ若い心、ほぼ幼心の無秩序を映す気がする。目覚めを余儀なくされた意識のビジョン。ここで現れる「全てを壊す意志」とは残酷な世界への青春の反応しかない。選択を提供しない世界。
そして、この喪失感をどうやって立ち向ったらいいのか?何よりもまず、立ち向った方がいいだろうかな?「Paraphilia」で至った答えは現実逃避。しかし、この作品で違う傾向がみられる。例として、「Figure 0」の中の答えはニヒリズム。「I’m nothing still」という繰り返したバース、鋭いシャウト、厚かましい自殺の論及、圭角のギターがその構想を構成する。

このような不平は「Dysphoria」や「I’m in no core」にも出て来る。この二曲で世界への不平が反対になり、接点は死刑台の皮肉な描写。世間が人間を絞首刑にする権力があったかのように。

小林さんのこの世界に対する幻滅はイタリア詩人のモンターレに近いような気がする。モンターレによって個人が存在という刑務所に一人で閉じ込められ、生きる痛みに圧された。出口のない地獄なので、この落胆への解決策がなく、救いもない。でも本当は、小林さんはこんなに敗北者ではないというのは事実。というか、小林さんによって、出口はある:愛。

実に、小林さんの世界観はちっと前向きではないが、「パラダイス」、「Pilica」といった曲で陽性の展望が感じられる。では、以上述べた従って「パラダイス」は「Misstopia」のマニフェストとなると言えるだろう。小林さんが書いた「僕らの町」はなんとか妖気でみなぎったところに見える:パラソルを振る悲しんだ子ども達、怪しい犯罪行為に淫する大人達。

今日も僕らの町で
たくさんの心が犯されているのを
楽しんだ大人達
永遠に外で逆さに吊るす

The Novembers「パラダイス」

逆回転の二人は狂った全てを破壊することにした。「取り返しがつかないくらいに」世界を破壊するのはただ二人が生きられる条件に見える。歌の終わりに二人が駆け出して、自由を追い付ける。地平の果てまで走っているのだけど、行方が構わないというのが分かる。「どこまでも君となら」が小林さんの最終の言葉。逃走の唯一の限りは一緒にいること。

「Paraphilia」での「二人」から、「Misstopia」の中心は相手となり、相手の存在に救世がよるとなる。とりわけ「Pilica」という曲で美しいイメージが続いている。人魚になった相手、ファンタジーのトーン、小林さんの結晶性の歌声、甘いギターのエフェクトはやはり素敵で夢幻的の現実を創る。しかし、全く世界を奇麗にするのに、何か大切なものを失う必要があるではないだろうか?

花で世界を埋め尽くしてみたい
どんな花でもいい

The Novembers 「Pilica」

小林さんが書いた花だらけの世界、あるべき姿の世界にたどり着くために、相手の身体の自己犠牲、彼が「血を流す事はない」ように、ついに今までできなかったことを許すかのように。「Pilica」でも、二人は駆けだすということが見られる。ぶっ通し走ること、一曲から一曲に、各曲がパラレルワールドのようなものとする。「Pilica」は相手への愛を表す銘文として私達は読むべきだ。ザ・キュアーのロバートスミスがを「Disintegration」の「Lovesong」に連れていった、彼女に「Kiss me, kiss me, kiss me」を捧げたと同様に。

そういえば、「Paraphilia」はゴーガンの美術作品を思い出した。ゴーガンに対してわかりはする様々な批判にもかかわらず、彼の画像は穏やかな印象を与えてくれる。やはり遠いところだけなのに、パラレルワールドに近いユートピアの感じがある。ピンクの海といったファンタジーの要素がかなり顕著なのだけど、理想的な生活をする夢を画像の形にしたという美点があるではないか?豪華な緑でいっぱい光景、今頃の大勢の人に共通の願い事になったようだから、ゴーガンの風景と小林さんが歌う雰囲気がこのように慕われるようになってきた。

心だけで生きていけたら身軽だわ

The Novembers 「Sea's sweep」

彼女は小林さんにそう話す。この言葉で希望を感じる同時に、ある苦味も心付く。そんなことは決して出来ないから。

だから、「Paraphilia」がゴーガンに結び合わせる一方、「Misstopia」はシャガールを思い出した。シャガールは恋人をしきりに絵の世界に連れて行くわけで知られている。以下の映像のように町を飛んでいる二人は「Misstopia」らしいイメージのような気がする。ある意味でヴィジュアル系のムーディーな鋭感とシャガールの超人的な恋心を生かして聞き手が生きたくなる世界を醸し出す。

以上述べた曲以外に、二人の重みは確かに「ウユニの恋人」と「Tu m'」(「Rhapsody in beauty」につながる扉)で浮かべる。「ウユニの恋人」は新しい人生、自由への讃美歌のように聞こえる。この曲で「Sea's sweep」と同じような目線があるだけでなく、積極的に反応する。「Sea's sweep」の結びに二人は:

小さな部屋の中で僕らは
来るべき朝を待ち焦がれてる
ガムを噛んで面倒くさそうに
あくびをして君は微笑んでいた
いつもの場所で
温かい場所で

The Novembers 「Sea's sweep」

ただし、場所より失ったのは現実感の方だと思ってしまう。この作品は聞き手の耳に「誰か一人でこの世の中で生きられない。一人でその苦労を立ち向えない。だって、全ての苦労と責任を共に持つもう一人がいた方がいい。それ以外、仕方がない。」と囁くかのよう。

「Misstopia」、文字通り「失った場所」という意味になる。今や居場所、正気、確実を失うのを受け入れるなら、何を取り返すのだろうかな。


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